- 2020/03/19
- 執筆者: Yamaoka (5:16 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第15回「新コロナで思い起こす昭和30年代の衛生状況」
あの頃は衛生状態が今では考えられないくらいひどかった。家も小学校もトイレは汲み取りだし、通学路にはこやし溜めがあって、時々石投げて遊んだり、ハエはたかるし、鼻水たらしっぱなしの子どもが袖でふいているし、道を歩いていると野良犬のクソをふんじゃったりするし、道が舗装されてないもんだから土ぼこりで目の病気になり、学校ではやたらと怖そうな名称の予防注射だとか、寄生虫対策の虫くだしとか、尻にセロテープみたいなのを貼って、はがしたのを提出するとか、よくまあ無事に成長したもんだよ。
予防注射で覚えているのは、ツベルクリン反応とかで注射したあとが赤く腫れて陽性にならないと、BCGという恐ろしく痛い注射を肩にした。予防注射はほかにも腸チフス、ジフテリア、日本脳炎とかいろいろやったが、なかでも痛かったのが日本脳炎。もう聞いただけで恐ろしいので痛いのも我慢するんだけど、今から思い返すとワクワクするような感じもなくはなかった。
それから当時の保健衛生図鑑みたいなのを開くと、やたらと精密な図解で、たとえばトラホーム(トラコーマ)になると眼がこんな状態になるとか、寄生虫のさなだ虫は全長7メートルもあるとか、なんだか怪奇ものを見るように結構ワクワクしながら回し読みしたもんだよ(保健室に置いてある)。
野菜をよく洗わないと、お腹の中で寄生虫が…なんて脅かすものだから、野菜を中性洗剤を垂らした水で洗うなんて、とんでもないことやっていたのだ。(CMでもやってた)。今だと大問題だけど、まあ一方で食品添加物も人工甘味料のチクロだとか、派手な着色料とか平気で使っていたんだからね。
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- 2020/03/06
- 執筆者: Yamaoka (7:48 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第14回「開催から50周年ーー大阪万国博の思い出」
そんなことより、高校生のお目当ては、各国パビリオンのコンパニオン。「ベトナム館のコンパニオンは最高に可愛い」なんて聞いたら飛んでいって写真を撮ったりしたもんだよ。
さて、この万博では飲食の昭和史を語る上で忘れられないものが登場した。一つはアメリカ館のフードコーナーだったかに出店した「ケンタッキーフライドチキン」である。これがファストフードチェーンの先駆けだと言われている。ちなみにハンバーガーも売られていたが、「マクドナルド」のオープンは翌年の1971年だ(銀座三越の1階に店があり、ホコ天で歩きながら食べるのがナウかったのだ)。このフライドチキンは高校生にも大人気だった。今ならどうってことないんだが、当時は鶏のから揚げは結構なごちそうだったのだ。それを立ち食いで、さらには歩きながら食べるなんて先端の若者(変な言い方)がやることだったのよ。その際、飲み物はコーラだ。ことちら中学・高校時代で一番飲んだ飲み物といったらコーラだけど、さすがに30歳過ぎてからは、ほとんど飲まなくなったよ。
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- 2020/02/19
- 執筆者: Yamaoka (1:22 am)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第13回「こんにちは赤ちゃん」梓みちよ死去と、「ママ」の作品いろいろ
「こんにちは〜」がレコード大賞を受賞したのは1963年。こちとら小学3〜4年生の頃だが、この歌と、舟木一夫の「高校3年生」がいつも流れていた記憶がある。
「こんにちは〜」の中で「私がママよ」という歌詞があるんだけど、あらためて思うに、ママとかパパという言い方って、小学校も中学もクラスのなかでママとかパパと呼んでいる家は、ウチも含めて皆無だったと思う。一体どこの家庭でそんな呼び方をしてたのだ。ドラマでよく金持ちのお嬢様が「ママ〜」「パパ〜」なんて言っていたが、周りにそういうお嬢様もいなかったぞ。ちなみにウチはカーチャン、トーチャン。ほかの家も、オカーチャン、おかあさんが普通で、おかあさまも聞いたことがない。母上もないよ(時代劇か!)。ましてママなんて飲み屋の女将か。マミーなんて言い方もあったけど、それじゃミイラだろう(最近の若夫婦と子どもの会話なんて外で聞いてると、普通にパパ、ママなんて言ってるが)。
そういえばテレビドラマで『ママちょっと来て』(冒頭左写真)というのを時々観てたんだ(放映は1959年から63年。ロングランだ)。主演は乙羽信子、パパ役は千秋実の、よくあるホームドラマだが、これは元々アメリカの人気ホームドラマ『パパは何でも知っている』と『うちのママは世界一』をモデルにしたという。
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- 2020/02/06
- 執筆者: Yamaoka (2:34 am)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第12回「“殺し屋”宍戸錠逝く」
宍戸錠といえば報じられているように、日活のスター。それも正義のヒーローや青春映画のイケメンというよりは、不敵な悪役。それも殺し屋が一番似合っていた。
1961年、当時の日活のトップスターであった石原裕次郎がスキー場で骨折したため半年以上も映画に出られなくなり、さらに若手のホープであった赤木圭一郎もゴーカートの追突事故で21歳で亡くなった。二人とも毎月のように主演映画が封切られていた時代だ。困った日活は、準主役扱いだった二谷英明を通称ダンプガイ、また宍戸錠を通称エースのジョーと呼んで主演作品を用意したのだ。
宍戸錠はわざわざ頬っぺたを整形して悪党面にして、しかも日本一の早撃ちスターとして売り出した。当時、世界一の早撃ちスターは『シェーン』の主人公で名高いアラン・ラッドだった。
こちとらが小学生だった1961〜62年頃といったら、テレビで毎日のように西部劇が放映され、モデルガンが大人気だった。お金持ちの息子の家なんか行くと、ガンベルトに高級そうなモデルガンなんか持っててさ、二挺拳銃で早撃ちごっこなんてやってたもんだ。一方ビンボー人の息子は安い銀玉鉄砲(銀玉が速射で出て結構迫力があるのだ)か水鉄砲、さらにマッチガンとかいってマッチ棒を詰めて飛ばすという変なものもあったっけ。
その頃、宍戸錠が出ていた日活映画は舞台は日本なのに西部劇みたいな不思議な設定というかハチャメチャなものが沢山あった。乱闘のさなかなのに主人公が歌いだすと皆、手を止めるとかね。その後、学生時代に名画座とかオールナイトで昔の日活映画を良く観に行ったが、宍戸錠主演で忘れられない作品が何本かある。
なかでもスナイパーの殺し屋を主人公にしたハードボイルドの傑作といわれているのが『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(67年)だよ。宍戸錠はそれまでとは違って、寡黙な殺し屋の役で狙撃用ライフルで標的を仕留める姿が抜群にかっこよかった。
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- 2020/01/22
- 執筆者: Yamaoka (6:49 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第11回「コンビーフの『枕缶』販売がこの春終了に」
これは結構、衝撃的な話である。ノザキのコンビーフというと、台形の缶詰に牛の絵柄で子どものころからお馴染みのだ。
開ける時は缶切りを使わない。缶の横にひっついている巻き取り金具で、クルクルクルとやっていくとパカンと開いて中身のコンビーフがビロンと登場する。
このクルクルがなくなって、そのままカパッというのは便利なようであるが、なんとも味気ない。それはペットボトルで飲むラムネ、コーラ、サイダーみたいなもんで、あれはやっぱりガラスのビンでなくてはあかんよ。特にラムネのガチガチッとしたビンにガラス玉をブシュッと押して飲むのとペットボトルを比べたらもう美味さが全然違うぞ。コーラも昔の自動販売機でお金を入れるとビンがドシーンと落ちてきて、あの独特な手ざわりと重さがあるおかげて美味さもアップしたってわけさ。
さてノザキのコンビーフでもう一つ、忘れられないシーンがある。 ショーケンと水谷豊の共演で高く評価されたテレビドラマ『傷だらけの天使』の毎回のオープニング(上左写真)である。
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- 2020/01/08
- 執筆者: Yamaoka (2:49 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第10回「渋谷周辺の様変わりぶり」
たまに親父に連れられて怪獣映画の『モスラ』とか『キングコング対ゴジラ』は渋谷東宝で観た。洋画だとディズニーの『101匹わんちゃん大行進』なんてのは東急文化会館のパンテオンだ(今の「ヒカリエ」)。帰りは西村フルーツパーラー(今でもある。集団就職で上京した永山則夫が働いていたのだ)で、フルーツポンチにありついたらもう幸せ!てなもんさ。小学校2年のときに観た『モスラ』では、その渋谷の町が徹底的に破壊されるんだ。それも精巧に作られたミニチュアセットで、東横デパート(昔の言い方)や西村フルーツパーラーまでちゃんとあるんだから、子ども心にはショックだよね。
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- 2019/12/25
- 執筆者: Yamaoka (7:08 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第9回「梅宮辰夫とアンナの死」
梅宮辰夫といえば、最近では釣り好きの好々爺か、わがままな娘に手を焼く良きパパというイメージだが、60〜70年代東映映画を観まくったこちとらから見れば、『不良番長』であり『夜の帝王』であり『仁義なき戦い』だよ。特に『仁義なき戦い』の4作目『頂上作戦』の神戸の大組織(映画では「明石組」だがモデルは「山口組」)の若頭補佐=斬り込み隊長役は迫力があった。
後で知ったことだが、実はもっと前の少年向けテレビドラマで梅宮辰夫に出会っていたのだ。それは『遊星王子』だ。1960年前後に制作された『月光仮面』『ナショナルキッド』『少年ジェット』『海底人8823』『スーパージャイアンツ』『鉄腕アトム(実写版だよ)』などなどの荒唐無稽のヒーローものの一つだが、イマイチ地味であまり話題にならなかった。
東映のニューフェイスになってからは、あらゆるジャンルで登場するんだけど、中村錦之助、高倉健、鶴田浩二、菅原文太、若山富三郎、藤純子といった主役を張るスター級に比べると、スケベで不良というB級ポジションだが、実際はもてまくって「千人斬り」なんて言われてたっけ(松方弘樹もそうだったね)。2本立てだと、スター級のメインの1本と梅宮主演の添え物ってな感じで、『夜の女(スケ)狩り』『未亡人(ゴケ)殺しの帝王』『夜遊びの帝王』『夜の青春シリーズ・ひも』といった、キワもので奮闘。タイトルはえぐいけど結構まともなキャラクターだったのだ。
そして『不良番長』シリーズがヒットしてランクが上がり、実録路線全盛になると、従来のスターに替わって松方弘樹や渡瀬恒彦や千葉真一、山城新伍らと第一線で活躍する。それにしても存命なのは、千葉真一くらいになっちゃったね(藤純子も元気だけど)。
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- 2019/12/11
- 執筆者: Yamaoka (3:39 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第8回「『男はつらいよ』第1作から50年ーー撮影2度遭遇の思い出」
しかし、初めて観てそのあまりの面白さに爆笑の連続。それから、名画座で追っかけて80年代中頃までは欠かさず観ていた。観なくなったのは、寅次郎がだんだんヤクザっぽくなくなって、普通の人、さらには好々爺風になっていったからだ。それでも振り返ってみれば、戦後日本映画史上これだけ長期(〜1996年。渥美清の死去まで)にわたって、高水準で作られた大衆娯楽映画はほかにない。
実は『男はつらいよ』の撮影に2度遭遇したことがある。1度目は1970年の11月頃、高校の友達と柴又を訪ねたところ、何と正月封切りの新作を撮影していたのだ。「とらや」の近くでカメラをセッティングしていたので、これは映画に出してもらえるかもと期待したら、助監督に「そこ、邪魔だからどいて」と追い出されてしまった。周りにいた通行人はエキストラだったのだ。そこでカメラの後ろから観ていたら、目の前を倍賞千恵子が乳母車を引いて(息子役はまだ1歳)通りがかり、佐藤娥次郎は帝釈天の境内のそばで掃除をしている。セリフもなく映画では5〜6秒でしかないシーンを何度も繰り返している。「とらや」の中も撮るのかと思ったら、あれは撮影所のセットだったらしい。
そのセットがある松竹大船撮影所で9年後、今度は本物の渥美清に遭遇した。その頃、小生はテレビCMのプロダクションで、制作進行という映画の助監督のような仕事をしていた。この時は、ある商品の撮影で大船撮影所を訪れたところ、ちょうど「とらや」のセットが組まれていたセットで撮影を終えた渥美清が寅次郎の扮装でスタスタと廊下を歩いてきたのだ。
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- 2019/11/28
- 執筆者: Yamaoka (5:59 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第7回 B級グルメ「昭和的存在の『街中華』」
いわゆるどこの街でもあった普通の中華屋さんのことを指すのだが、これがここ数年、脚光浴びて、テレビのワイドニュースでも取り上げられたり、街中華の「名店」を集めたムック本や、雑誌の特集とか、街中華専門家みたいな人も出てきた。そこでわしも本屋に行って「東京ノスタルジック街中華」(タツミムック)という本を購入した。キャッチには「庶民の舌と心の故郷……それが『街中華』だ!」なんてある。う〜む、すごいね。
ひと昔前、この「街中華」がこんな風に取り上げられることはなかった。街中華とは、まあ何でもありの中華食堂のことで、一番安いメニューがラーメン、そしてワンタン、タンメン、もやしそば、餃子、チャーハン、天津丼、麻婆豆腐、上海焼きそば、五目そば、冷やし中華(夏場のみ)、ニラレバ炒め、肉野菜炒め、焼売(シューマイ)、八宝菜、酢豚なんて定番メニューがズラズラ並んでいる。
あらたまっての会食ではなく、ちょいとご近所でお昼ご飯。特にこの味がどうだこうだはこだわらない。まあ街中によくあったおそば屋さんの中華版で、どこの街でもありがちで、特に美味いとか不味いというわけではないが、日常的にはなくてはならない存在、そんなところか。
街中華で思い出すのは高校時代。学校の近くにごく平凡な街中華の店があって、時々学校帰りに友達と立ち寄った。ここでよく注文するのがタンメン。ラーメンが80円で、タンメンが100円なんだけど(1970年頃だ)、タンメンの方がはるかにボリュームがある。ただし肉なんて豚のコマ切れが数切れなんだが、野菜がたっぷり。そこにラー油をたっぷりかけて食う。
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- 2019/11/13
- 執筆者: Yamaoka (11:12 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第6回「和田誠との思い出」
それで思い出すのは1992年のこと、実は小生、和田誠に直接会いに行って、少しだけどお話もして、貴重な「作品」をお借りしたのだ。
当時、小学館の「サライ」で名画座特集をやることになって、その企画から取材・執筆まで手がけたのである。
その頃はまだ、東京に文芸坐、並木座、早稲田松竹、亀有名画座、大井武蔵野館、浅草新劇、浅草名画座なんて、個性的な名画座が残っていて(文芸坐はリニューアル、早稲田松竹も健在)、訪ねていって館主の話を聞いたり昔の貴重な資料なんかを提供してもらった。
そんななかで、その頃にはもうなかった新宿日活名画座(1972年に閉館)のポスターを探し出そうということになった。なぜここのポスターにこだわったかというと、あの和田誠が毎回デザインを担当していたというのだ。その話は、映画好きの間で伝説のように語られていたので、こうなったらダメもとで和田誠本人に頼んでみようと、仕事場に出向いたのである。
ところが、ドアを開けて出て来たのは本人ではないか。巨匠のオーラというよりは、仕事の合間にふらっと「どうだい景気の方は」なんて話しかけてくるような気さくなおっさんという感じだった。
で、用件をあらたまって言うと、「ちょっと待って」と言って、しばらくしたら大きな箱を持ってきた。「このなかから良さそうなの選んでよ」だって。中身を見ると、毎回映画館でくれるスケジュールなどを書いたチラシがたっぷり。そこに和田誠のイラストが描かれている。
たとえば上映中の作品が『クレオパトラ』なら、イラストで主演のエリザベス・テイラーがそれらしく、『アパートの鍵貸します』だと、ジャック・レモンのイラストとか、それはそれは贅沢なチラシなのだ。
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- 2019/11/01
- 執筆者: Yamaoka (5:44 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第5回「八千草薫と、すっかり小ぎれいになった川崎」
最初に思い浮かんだのが、テレビドラマ『岸辺のアルバム』(1977年 山田太一脚本)での不倫に走る母親役だ。平穏に見える中流家庭が徐々に崩壊してゆく過程に、多摩川の氾濫で住宅が流されてゆくニュースがかぶさるさまが、これまでのホームドラマにはないリアリティがあった。
その『岸辺のアルバム』は、この10月の台風19号での多摩川氾濫の際も話題に出たけど、台風では多摩川周辺と武蔵小杉のタワーマンションが大変なことになった。その武蔵小杉は川崎市の北部である。昭和の頃の川崎のイメージと違う。
それが今やどこもファミリータウンと化し、小ぎれいになってつまらなくなったね。特に武蔵小杉なんて、住みたい町の上位にランクされて大きな顔しているけど、電車の乗り換えはめんどうくさくて分かりにくいし、町も殺風景で、味わい深い昔ながらの商店街もない。わしは頼まれても住みたくないぞ。
前回取り上げた「東京ブラックホール」で描かれていた東京オリンピック(1964年)当時の東京で、排気ガスと煤煙のスモッグだらけで子どもたちが咳込んでいるシーンがあったが、特に川崎は大工場が多くひどかった。そして川崎名物といったら今はなき川崎球場(大洋ホエールズの本拠地。1960年に奇跡の日本シリーズ優勝!)、直接行ったことはなかったが、映像や写真で見ると、工場労働者や店員の兄ちゃんがわんさといて、独特な雰囲気だったらしい。
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- 2019/10/16
- 執筆者: Yamaoka (11:08 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第4回「東京五輪の1964年は決して人情あふれるほのぼの時代じゃなかった」
フィクションと当時の記録映像をミックスして時代の雰囲気を出すというユニークな試みで、第1弾が敗戦直後の焼け跡・闇市の時代、そして今回が東京オリンピックの1964年なのだ。
面白いのは、セットでのドラマと並行して、山田を当時の記録映像にはめこんでゆく手法だ。たとえば、当時の銀座の雑踏を山田が実際に歩いているように見せる。リアリティがあって時代の実感がつたわってくるってわけ。
さて東京オリンピックの1964年といえば、戦後19年にして、高度経済成長で日本も様変わり、新幹線が走り、高速道路ができて、夢と希望にあふれた時代なんてイメージが一般的だろう。
ところがこの番組は、むしろこの時代の光と影の「影」=マイナス面にスポットを当てる。冒頭、主人公は2020年五輪に向けた工事現場で働くが、タイムスリップした先も目前の五輪を控えた工事現場で、「そんなとこで寝てるんじゃねえ!」と早速ドヤされてあたふたする。
一方で、丸の内あたりのホワイトカラーのサラリーマンとOLが優雅に銀座でデートしたりと、高度成長は格差を助長したのが分かる。
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- 2019/10/04
- 執筆者: Yamaoka (6:30 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第3回「すっかりいなくなってしまったプレイボーイ、高等遊民」
『週刊プレイボーイ』の創刊は1966年。
ライバル誌の『平凡パンチ』が1964年。いずれも初めての本格的な青年向け週刊誌だったのだ。創刊を宣伝するキャッチが「国際感覚あふれる新男性週刊誌誕生」だもん。売りはヌードグラビア(外国人モデルが多かった)、車、ファッション、音楽、映画、旅行、海外の流行と、まあ先端を行く若者にとってパンチとプレイボーイは必須アイテムだったわけだ。
1970年代に入って大学に入ると、もうパンチやプレイボーイを読んでいる学生は田舎者とかダサいなって雰囲気になってきた。あの頃は、外車乗り回してナンパしているような学生もチラホラいた。見るからに高そうなファッションで、大学にも教科書も持たずに手ぶらで来たりね(それがカッコイイのか)。でも、本物のプレイボーイって多分週刊誌なんか読まないだろう。
そういえば最近、大学の近くなんか歩いていても、プレイボーイ風の学生っていないね。ほとんど地味で、真面目に授業で出て、紳士服チェーンで購入したようなダサい黒スーツで就活している。
それから、車だナンパだのといったプレイボーイではなく、高等遊民てのもいなくなった。
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- 2019/09/20
- 執筆者: Yamaoka (3:11 pm)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第2回「マカロニ・ウエスタンがB級とは言わせない」
レオナルド・ディカプリオ扮する往年の西部劇スターが、落ち目になりイタリアまで遠征してマカロニ・ウエスタンでなんとかしのぐというもの。実際、テレビのヒット番組『ローハイド』で、カウボーイ役で人気があったクリント・イーストウッドが、その後のハリウッドではパッとせずに、マカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』で大ブレイクしたのは有名な話だ。
日本でも最近はマニア向けの解説本などが続々出ているけど、正統派西部劇ファンに言わせるとマカロニなんて邪道、B級、格下扱いで、そもそもマカロニ・ウエスタン(アメリカではスパゲティ・ウエスタンなんて呼ばれていたらしいが)なんて呼び方からして、ゲテもの扱い。当時は残酷西部劇なんてレッテルを貼られたりした。
確かに残酷なバイオレンス・シーンが目玉で、ヒーローも無精ひげで汚れた感じ、拳銃の音も独特で、おまけに音楽がディープな雰囲気を醸し出す、なんともいえないジャンクな味わい、そこがまた魅力的だったのだ。
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- 2019/09/06
- 執筆者: Yamaoka (12:26 am)
<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第1回「ピーター・フォンダに捧ぐ」
しかし連載当時よりも、世代を越えて昭和カルチャーへの想いは強くなっている気がするね。最終回で取り上げた女優・水野久美も80歳になり、ここんとこはテレビ朝日の『やすらぎの刻』(倉本聰脚本 昭和の名役者たちが続々登場)でも、女優健在で嬉しい。
昭和の役者といえば今年上半期の大ニュースが、ショーケン(萩原健一)とユウヤ(内田裕也)が亡くなったことだ。二人については、追悼特集や名画座でも上映会なども盛んだったが、最近のニュースではピーター・フォンダが亡くなった(享年79歳)のに、扱いが小さいのが気になったな。
しばらく前から昔の人という印象だったが、ピーター・フォンダといえば最初に思い浮かぶのが『イージー・ライダー』(監督はデニス・ホッパー。共演はジャック・ニコルスン)。今年が製作から何と50年(日本公開は1970年)だ。ベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が盛り上がり、ヒッピー・カルチャーとウッド・ストック野外コンサートなど、1969年はカウンター・カルチャーの年だった。ニューシネマでおなじみの作品は『俺たちに明日はない』『真夜中のカーボーイ』『明日に向かって撃て』『いちご白書』などが思い浮かぶけど、なかでも特に『イージー・ライダー』は時代を体現していた。長髪、ヒゲ、バイク(チョッパーハンドル)、放浪、自由気まま、などなど、南部の保守系白人が「このクソヒッピー野郎が」と敵愾心むき出しになるさまが、かえって今のアメリカと重ねるとリアリティがある。
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- 2012/07/27
- 執筆者: Yamaoka (3:24 pm)
『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第43回(最終回)「フィナーレは水野久美」
最終回である。100回くらいは続けたかったが、またどこかで再開するかもね、しばしお別れ。しかしまあ皮肉なことに最後なのにネタが山のように押し寄せてきちゃったよ。
その年の夏休みに公開された『フランケンシュタインVS地底怪獣バラゴン』のヒロイン、若手女科学者、顔立ちは派手めで、どちらかというとギャングの娼婦てな感じなのだが、怪獣映画に妙にフィットして、相手役のニック・アダムス(こちらも科学者)に色目を使っていそうで、巨大化するフランケンシュタインの怪物からも慕われているところがグッときた(バラゴンに食われそうになる寸前にフランケンに助けられるシーンが最高)。
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- 2012/06/27
- 執筆者: Yamaoka (11:30 am)
『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第42回「スカイツリー開業と錦糸町の立場」
あのソラマチというのは、ありがちな観光客向けショッピングモールで、東京タワーやお台場(レトロ商店街なんかね)、江戸東京博物館、浅草仲見世あたりの要素はスパイス程度にして、船橋ららぽーとやイオンを混ぜこぜにしたようなボリュームで客を一気に吸収しているわけだよ。おかげで、がっくりきたのはまずは押上商店街でないのか。
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- 2012/06/06
- 執筆者: Yamaoka (9:40 am)
『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第41回「ダークシャドウと1972年」
たとえば屋敷に住む15歳のロック好きとんがりネエチャンが、家庭教師の女を指して「カーペンターズが好きなんて(超ダサ)」とおちょくると、ジョニー・デップ扮する200年前のヴァンパイアが、「大工(カーペンター)が好きだって?」なんて勘違いのやりとりとか、ラブ&ピースのヒッピーたちとヴァンパイアの変なコミュニケーションとか、伝説のロック・ミュージシャンであるアリス・クーパーが本人そのまま登場で歌うとか、いろいろあるので、70年代フリークは見逃せない。その72年といえばもう40年前、連合赤軍事件と沖縄返還の年でおなじみだが、映画に関しては、なかなか面白い年だった。
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- 2012/05/23
- 執筆者: Yamaoka (12:10 pm)
『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第40回「昭和40年代にはすべてが詰まってた」
本書は、1997年から2011年までの時評・文化コラムを編んだものだが、60年代、70年代といった時代区分ではなく、昭和40年代という区分にこだわっているのが面白い。確かに、政治・社会運動からカルチャー全般、風俗・ファッション、メディアまで昭和40年代でくくるとあらゆるもののニューウェーブの推移が詰まっていて、ホンマに分かりやすい。
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- 2012/05/08
- 執筆者: Yamaoka (12:30 pm)
『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第39回「夜行バス乗るなら夜汽車を復活しろ」
昔の歌謡曲の歌詞には、恋に破れた女が夜汽車に乗ってとか、かけおちしたカップルが夜汽車にとかいうシチュエーションが多かった。はしだのりひことクライマックスの「花嫁」(1971年)なんて「花嫁は夜汽車に乗って嫁いでゆくの?」だもんね。今だったら「花嫁は終夜高速バスに乗って嫁いで?」なんてことになるのか?しかし、よくよく考えてみたら、何で嫁ぐのにわざわざ夜汽車に乗るのか? 夜逃げでかけおちか、貧乏なのか、どうでもいいんだけど、夜汽車にはバスにはない風情がある。
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