お知らせ

○重大なお知らせ

本HPは6月22日(金曜日)を持って完全移行します!

従来のシステムが古く限界に近づいたため、6月22日(金曜日)からまったく新たなHP(https://access-journal.jp)を構築、そちらに完全移行します。
それと同時に料金体系も一新。個人に関しては月額800円(+税)のクレジット決済のみに統一します。法人に関しては料金体系は従来通りで、銀行振込も可能です。

したがいまして、有料講読入会も6月22日(金曜日)以降は、新しいHPの方でお願い致します(このHPからの入会は絶対にしないで下さい。万一、誤って入会されても返金致しかねます。)

もちろん、すでに入会いただいている方におきましては、最大1年間、このHPは閲覧専用のために残しますし、その間の新規記事も新しいHPと並行し掲載することで不利益を被らないようにしますのでご安心下さい。

本紙「アクセスジャーナル」をいつもご覧いただき、本当にありがとうございます。
これを契機に利便性、セキュリティー、そして記事内容もさらに向上させて行きますので、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

最新エントリ
  • 最新エントリ配信
  • 2020/03/19
  • 執筆者: Yamaoka (5:16 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第15回「新コロナで思い起こす昭和30年代の衛生状況」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 来る日も来る日もコロナウィルスの話ばかりだが、そこで思い出したのが昭和30年代頃の感染とか予防接種や世の中の衛生状態のことだ。
 あの頃は衛生状態が今では考えられないくらいひどかった。家も小学校もトイレは汲み取りだし、通学路にはこやし溜めがあって、時々石投げて遊んだり、ハエはたかるし、鼻水たらしっぱなしの子どもが袖でふいているし、道を歩いていると野良犬のクソをふんじゃったりするし、道が舗装されてないもんだから土ぼこりで目の病気になり、学校ではやたらと怖そうな名称の予防注射だとか、寄生虫対策の虫くだしとか、尻にセロテープみたいなのを貼って、はがしたのを提出するとか、よくまあ無事に成長したもんだよ。
 予防注射で覚えているのは、ツベルクリン反応とかで注射したあとが赤く腫れて陽性にならないと、BCGという恐ろしく痛い注射を肩にした。予防注射はほかにも腸チフス、ジフテリア、日本脳炎とかいろいろやったが、なかでも痛かったのが日本脳炎。もう聞いただけで恐ろしいので痛いのも我慢するんだけど、今から思い返すとワクワクするような感じもなくはなかった。
 それから当時の保健衛生図鑑みたいなのを開くと、やたらと精密な図解で、たとえばトラホーム(トラコーマ)になると眼がこんな状態になるとか、寄生虫のさなだ虫は全長7メートルもあるとか、なんだか怪奇ものを見るように結構ワクワクしながら回し読みしたもんだよ(保健室に置いてある)。
 野菜をよく洗わないと、お腹の中で寄生虫が…なんて脅かすものだから、野菜を中性洗剤を垂らした水で洗うなんて、とんでもないことやっていたのだ。(CMでもやってた)。今だと大問題だけど、まあ一方で食品添加物も人工甘味料のチクロだとか、派手な着色料とか平気で使っていたんだからね。

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  • 2020/03/06
  • 執筆者: Yamaoka (7:48 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第14回「開催から50周年ーー大阪万国博の思い出」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 コロナ騒ぎで話題にもならなかったが、実は今年3月であの「大阪万国博」開催から50周年になるのだ。
 1970年の5月、高校(2年)の修学旅行で、京都、奈良の定番コースに加えて万博で1日自由行動というのがあったのだ。どんな展示があったのか、ほとんど覚えていないが、一番人気は確かアメリカ館の「月の石」だったと思う(前の年1969年にアポロが月面着陸した)。これも動く歩道みたいなとこから月の石だかカケラみたいなものを遠くから見るだけで、触ることもできないし、評判は悪かったね。何たってあの頃は、10年もすれば月までの旅行できるとか、ゆくゆくは月に移住して生活もできるとか、次の火星では火星人と相互交流をするだの言われていたけど未だにダメじゃん。
 そんなことより、高校生のお目当ては、各国パビリオンのコンパニオン。「ベトナム館のコンパニオンは最高に可愛い」なんて聞いたら飛んでいって写真を撮ったりしたもんだよ。
 さて、この万博では飲食の昭和史を語る上で忘れられないものが登場した。一つはアメリカ館のフードコーナーだったかに出店した「ケンタッキーフライドチキン」である。これがファストフードチェーンの先駆けだと言われている。ちなみにハンバーガーも売られていたが、「マクドナルド」のオープンは翌年の1971年だ(銀座三越の1階に店があり、ホコ天で歩きながら食べるのがナウかったのだ)。このフライドチキンは高校生にも大人気だった。今ならどうってことないんだが、当時は鶏のから揚げは結構なごちそうだったのだ。それを立ち食いで、さらには歩きながら食べるなんて先端の若者(変な言い方)がやることだったのよ。その際、飲み物はコーラだ。ことちら中学・高校時代で一番飲んだ飲み物といったらコーラだけど、さすがに30歳過ぎてからは、ほとんど飲まなくなったよ。

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  • 2020/02/19
  • 執筆者: Yamaoka (1:22 am)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第13回「こんにちは赤ちゃん」梓みちよ死去と、「ママ」の作品いろいろ

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

「こんにちは赤ちゃん」の大ヒットで知られる歌手・梓みちよの死は、ここんとこの各界の大物の死去に比べて地味な扱いだった。
「こんにちは〜」がレコード大賞を受賞したのは1963年。こちとら小学3〜4年生の頃だが、この歌と、舟木一夫の「高校3年生」がいつも流れていた記憶がある。
「こんにちは〜」の中で「私がママよ」という歌詞があるんだけど、あらためて思うに、ママとかパパという言い方って、小学校も中学もクラスのなかでママとかパパと呼んでいる家は、ウチも含めて皆無だったと思う。一体どこの家庭でそんな呼び方をしてたのだ。ドラマでよく金持ちのお嬢様が「ママ〜」「パパ〜」なんて言っていたが、周りにそういうお嬢様もいなかったぞ。ちなみにウチはカーチャン、トーチャン。ほかの家も、オカーチャン、おかあさんが普通で、おかあさまも聞いたことがない。母上もないよ(時代劇か!)。ましてママなんて飲み屋の女将か。マミーなんて言い方もあったけど、それじゃミイラだろう(最近の若夫婦と子どもの会話なんて外で聞いてると、普通にパパ、ママなんて言ってるが)。
 そういえばテレビドラマで『ママちょっと来て』(冒頭左写真)というのを時々観てたんだ(放映は1959年から63年。ロングランだ)。主演は乙羽信子、パパ役は千秋実の、よくあるホームドラマだが、これは元々アメリカの人気ホームドラマ『パパは何でも知っている』と『うちのママは世界一』をモデルにしたという。

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  • 2020/02/06
  • 執筆者: Yamaoka (2:34 am)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第12回「“殺し屋”宍戸錠逝く」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 宍戸錠が亡くなって(享年86)、また日本映画黄金時代を駆け抜けた魅力あふれる役者が消えた。
 宍戸錠といえば報じられているように、日活のスター。それも正義のヒーローや青春映画のイケメンというよりは、不敵な悪役。それも殺し屋が一番似合っていた。
 1961年、当時の日活のトップスターであった石原裕次郎がスキー場で骨折したため半年以上も映画に出られなくなり、さらに若手のホープであった赤木圭一郎もゴーカートの追突事故で21歳で亡くなった。二人とも毎月のように主演映画が封切られていた時代だ。困った日活は、準主役扱いだった二谷英明を通称ダンプガイ、また宍戸錠を通称エースのジョーと呼んで主演作品を用意したのだ。
 宍戸錠はわざわざ頬っぺたを整形して悪党面にして、しかも日本一の早撃ちスターとして売り出した。当時、世界一の早撃ちスターは『シェーン』の主人公で名高いアラン・ラッドだった。
 こちとらが小学生だった1961〜62年頃といったら、テレビで毎日のように西部劇が放映され、モデルガンが大人気だった。お金持ちの息子の家なんか行くと、ガンベルトに高級そうなモデルガンなんか持っててさ、二挺拳銃で早撃ちごっこなんてやってたもんだ。一方ビンボー人の息子は安い銀玉鉄砲(銀玉が速射で出て結構迫力があるのだ)か水鉄砲、さらにマッチガンとかいってマッチ棒を詰めて飛ばすという変なものもあったっけ。
 その頃、宍戸錠が出ていた日活映画は舞台は日本なのに西部劇みたいな不思議な設定というかハチャメチャなものが沢山あった。乱闘のさなかなのに主人公が歌いだすと皆、手を止めるとかね。その後、学生時代に名画座とかオールナイトで昔の日活映画を良く観に行ったが、宍戸錠主演で忘れられない作品が何本かある。
 なかでもスナイパーの殺し屋を主人公にしたハードボイルドの傑作といわれているのが『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(67年)だよ。宍戸錠はそれまでとは違って、寡黙な殺し屋の役で狙撃用ライフルで標的を仕留める姿が抜群にかっこよかった。

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  • 2020/01/22
  • 執筆者: Yamaoka (6:49 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第11回「コンビーフの『枕缶』販売がこの春終了に」

 先日、ラジオを聴いていたら、ノザキのコンビーフが、この春からこれまでの缶詰タイプ(枕缶)を終わりにして、アルミ箔と樹脂フィルムのタイプにするという話をしていた。
 これは結構、衝撃的な話である。ノザキのコンビーフというと、台形の缶詰に牛の絵柄で子どものころからお馴染みのだ。
 開ける時は缶切りを使わない。缶の横にひっついている巻き取り金具で、クルクルクルとやっていくとパカンと開いて中身のコンビーフがビロンと登場する。
 こちとら子どものころから、あのクルクルと巻き取るのが大好きだった。コンビーフってふだんはあまり食べないけど、ほぐしてキャベツや玉ねぎと一緒に炒めて食べると、なんだか昭和のアパート暮らしの若者がたまに奮発するときの感じでグッとくる。友達のアパートに行って部屋の隅にこのコンビーフがあったりすると、「やったぞ!」てな気分になったもんだ。昔は、肉系缶詰のベスト3といったら、牛肉の大和煮、鯨肉の大和煮、コンビーフと決まっていたからね。
 このクルクルがなくなって、そのままカパッというのは便利なようであるが、なんとも味気ない。それはペットボトルで飲むラムネ、コーラ、サイダーみたいなもんで、あれはやっぱりガラスのビンでなくてはあかんよ。特にラムネのガチガチッとしたビンにガラス玉をブシュッと押して飲むのとペットボトルを比べたらもう美味さが全然違うぞ。コーラも昔の自動販売機でお金を入れるとビンがドシーンと落ちてきて、あの独特な手ざわりと重さがあるおかげて美味さもアップしたってわけさ。
 缶詰も同じで、まず見た目、特にコンビーフは大和煮みたいに丸くではダメで、あの台形が良いのだ。それから手に持ったときの冷たい手ざわりとズシリ感、そしてジワジワと進む開けるプロセス。今、普通の缶詰でもリングトップですぐに開けられるけど、缶切りタイプのキコキコやって蓋をグイーンとやるあの実感も同様に捨てがたいね。
 さてノザキのコンビーフでもう一つ、忘れられないシーンがある。 ショーケンと水谷豊の共演で高く評価されたテレビドラマ『傷だらけの天使』の毎回のオープニング(上左写真)である。

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  • 2020/01/08
  • 執筆者: Yamaoka (2:49 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第10回「渋谷周辺の様変わりぶり」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 最近、渋谷界隈を歩くと何だか異様に疲れる。スクランブル交差点はやたらと外国人観光客が盛り上がっているし、あちこち再開発で、グロテスクな高層ビルがニョキニョキ建って威圧感でぐったりする。宮下公園も一度リニューアルしたと思ったら、今度は全部ぶっ壊してショッピングモールをつくっている。ひと昔前の野宿者のテント村も跡形もない。東横線も地下鉄銀座線も分かりにくくなって迷路のようだ。おまけに今度は、あの渋谷駅前のシンボル的存在の東急東横店が再開発のためこの3月で閉店するという。もう渋谷に昭和のオヤジはお呼びでないかもね。
 さて何でこちとらが渋谷にこだわるのかというと、実は生まれが渋谷区なのだ。小田急線の代々木上原から歩いて10分ほど、上原小学校のすぐ近く。代々木上原っていうと、トレンディな街とかいってカッコつけているのが多いようだが、子どもの頃は、庶民的な町だった。ただし10分も歩けば駒場の高級住宅街で、古びた西洋館(横写真)なんかあって怪人二十面相が出そうな雰囲気。東大駒場のキャンパスやグラウンドにも忍び込んで遊んでいたのさ。有名人も多く住んでいた上原だが、家の周囲はなぜか長屋もあったりして面白い。
 たまに親父に連れられて怪獣映画の『モスラ』とか『キングコング対ゴジラ』は渋谷東宝で観た。洋画だとディズニーの『101匹わんちゃん大行進』なんてのは東急文化会館のパンテオンだ(今の「ヒカリエ」)。帰りは西村フルーツパーラー(今でもある。集団就職で上京した永山則夫が働いていたのだ)で、フルーツポンチにありついたらもう幸せ!てなもんさ。小学校2年のときに観た『モスラ』では、その渋谷の町が徹底的に破壊されるんだ。それも精巧に作られたミニチュアセットで、東横デパート(昔の言い方)や西村フルーツパーラーまでちゃんとあるんだから、子ども心にはショックだよね。

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  • 2019/12/25
  • 執筆者: Yamaoka (7:08 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第9回「梅宮辰夫とアンナの死」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 2019年最後の昭和ノスタルジーニュースといったら、やはり梅宮辰夫(12月12日死去。享年81)の死だね。そしてもう一人、アンナの死である。梅宮アンナではないよ。ジャン・リュック・ゴダール監督の元連れ合いで、何本も主演を担った仏女優アンナ・カリーナ(12月14日。享年79)のことだ。
 梅宮辰夫といえば、最近では釣り好きの好々爺か、わがままな娘に手を焼く良きパパというイメージだが、60〜70年代東映映画を観まくったこちとらから見れば、『不良番長』であり『夜の帝王』であり『仁義なき戦い』だよ。特に『仁義なき戦い』の4作目『頂上作戦』の神戸の大組織(映画では「明石組」だがモデルは「山口組」)の若頭補佐=斬り込み隊長役は迫力があった。
 後で知ったことだが、実はもっと前の少年向けテレビドラマで梅宮辰夫に出会っていたのだ。それは『遊星王子』だ。1960年前後に制作された『月光仮面』『ナショナルキッド』『少年ジェット』『海底人8823』『スーパージャイアンツ』『鉄腕アトム(実写版だよ)』などなどの荒唐無稽のヒーローものの一つだが、イマイチ地味であまり話題にならなかった。
 東映のニューフェイスになってからは、あらゆるジャンルで登場するんだけど、中村錦之助、高倉健、鶴田浩二、菅原文太、若山富三郎、藤純子といった主役を張るスター級に比べると、スケベで不良というB級ポジションだが、実際はもてまくって「千人斬り」なんて言われてたっけ(松方弘樹もそうだったね)。2本立てだと、スター級のメインの1本と梅宮主演の添え物ってな感じで、『夜の女(スケ)狩り』『未亡人(ゴケ)殺しの帝王』『夜遊びの帝王』『夜の青春シリーズ・ひも』といった、キワもので奮闘。タイトルはえぐいけど結構まともなキャラクターだったのだ。
 そして『不良番長』シリーズがヒットしてランクが上がり、実録路線全盛になると、従来のスターに替わって松方弘樹や渡瀬恒彦や千葉真一、山城新伍らと第一線で活躍する。それにしても存命なのは、千葉真一くらいになっちゃったね(藤純子も元気だけど)。

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  • 2019/12/11
  • 執筆者: Yamaoka (3:39 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第8回「『男はつらいよ』第1作から50年ーー撮影2度遭遇の思い出」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

『男はつらいよ』が第1作の封切りから50年というわけで記念映画も作られた、渥美清が生きていたら91歳だという。どんなジジイになっていたか、観たかったな。こちとらが初めて『男はつらいよ』を映画館で観たのは1970年、高校2年の時、池袋の文芸坐で『続・男はつらいよ』との2本立てだった。2本立てで100円だもん、映画ファンの貧乏若者にとってはありがたい名画座だったのだ。
 しかし、初めて観てそのあまりの面白さに爆笑の連続。それから、名画座で追っかけて80年代中頃までは欠かさず観ていた。観なくなったのは、寅次郎がだんだんヤクザっぽくなくなって、普通の人、さらには好々爺風になっていったからだ。それでも振り返ってみれば、戦後日本映画史上これだけ長期(〜1996年。渥美清の死去まで)にわたって、高水準で作られた大衆娯楽映画はほかにない。
 実は『男はつらいよ』の撮影に2度遭遇したことがある。1度目は1970年の11月頃、高校の友達と柴又を訪ねたところ、何と正月封切りの新作を撮影していたのだ。「とらや」の近くでカメラをセッティングしていたので、これは映画に出してもらえるかもと期待したら、助監督に「そこ、邪魔だからどいて」と追い出されてしまった。周りにいた通行人はエキストラだったのだ。そこでカメラの後ろから観ていたら、目の前を倍賞千恵子が乳母車を引いて(息子役はまだ1歳)通りがかり、佐藤娥次郎は帝釈天の境内のそばで掃除をしている。セリフもなく映画では5〜6秒でしかないシーンを何度も繰り返している。「とらや」の中も撮るのかと思ったら、あれは撮影所のセットだったらしい。
 そのセットがある松竹大船撮影所で9年後、今度は本物の渥美清に遭遇した。その頃、小生はテレビCMのプロダクションで、制作進行という映画の助監督のような仕事をしていた。この時は、ある商品の撮影で大船撮影所を訪れたところ、ちょうど「とらや」のセットが組まれていたセットで撮影を終えた渥美清が寅次郎の扮装でスタスタと廊下を歩いてきたのだ。

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  • 2019/11/28
  • 執筆者: Yamaoka (5:59 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第7回 B級グルメ「昭和的存在の『街中華』」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プ ロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。.

 久しぶりのB級グルメの話題だよ。最近気になっているのは「街中華」という言葉だ。
 いわゆるどこの街でもあった普通の中華屋さんのことを指すのだが、これがここ数年、脚光浴びて、テレビのワイドニュースでも取り上げられたり、街中華の「名店」を集めたムック本や、雑誌の特集とか、街中華専門家みたいな人も出てきた。そこでわしも本屋に行って「東京ノスタルジック街中華」(タツミムック)という本を購入した。キャッチには「庶民の舌と心の故郷……それが『街中華』だ!」なんてある。う〜む、すごいね。
 ひと昔前、この「街中華」がこんな風に取り上げられることはなかった。街中華とは、まあ何でもありの中華食堂のことで、一番安いメニューがラーメン、そしてワンタン、タンメン、もやしそば、餃子、チャーハン、天津丼、麻婆豆腐、上海焼きそば、五目そば、冷やし中華(夏場のみ)、ニラレバ炒め、肉野菜炒め、焼売(シューマイ)、八宝菜、酢豚なんて定番メニューがズラズラ並んでいる。
 あらたまっての会食ではなく、ちょいとご近所でお昼ご飯。特にこの味がどうだこうだはこだわらない。まあ街中によくあったおそば屋さんの中華版で、どこの街でもありがちで、特に美味いとか不味いというわけではないが、日常的にはなくてはならない存在、そんなところか。
 街中華で思い出すのは高校時代。学校の近くにごく平凡な街中華の店があって、時々学校帰りに友達と立ち寄った。ここでよく注文するのがタンメン。ラーメンが80円で、タンメンが100円なんだけど(1970年頃だ)、タンメンの方がはるかにボリュームがある。ただし肉なんて豚のコマ切れが数切れなんだが、野菜がたっぷり。そこにラー油をたっぷりかけて食う。

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  • 2019/11/13
  • 執筆者: Yamaoka (11:12 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第6回「和田誠との思い出」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 イラストレーターの和田誠が10月7日に肺炎のため亡くなった。享年83。
 それで思い出すのは1992年のこと、実は小生、和田誠に直接会いに行って、少しだけどお話もして、貴重な「作品」をお借りしたのだ。
 当時、小学館の「サライ」で名画座特集をやることになって、その企画から取材・執筆まで手がけたのである。
 その頃はまだ、東京に文芸坐、並木座、早稲田松竹、亀有名画座、大井武蔵野館、浅草新劇、浅草名画座なんて、個性的な名画座が残っていて(文芸坐はリニューアル、早稲田松竹も健在)、訪ねていって館主の話を聞いたり昔の貴重な資料なんかを提供してもらった。
 そんななかで、その頃にはもうなかった新宿日活名画座(1972年に閉館)のポスターを探し出そうということになった。なぜここのポスターにこだわったかというと、あの和田誠が毎回デザインを担当していたというのだ。その話は、映画好きの間で伝説のように語られていたので、こうなったらダメもとで和田誠本人に頼んでみようと、仕事場に出向いたのである。
 なんといってもあの巨匠である。せいぜい秘書あたりが出てきて、対応するのかなと思っていたぜよ。
 ところが、ドアを開けて出て来たのは本人ではないか。巨匠のオーラというよりは、仕事の合間にふらっと「どうだい景気の方は」なんて話しかけてくるような気さくなおっさんという感じだった。
 で、用件をあらたまって言うと、「ちょっと待って」と言って、しばらくしたら大きな箱を持ってきた。「このなかから良さそうなの選んでよ」だって。中身を見ると、毎回映画館でくれるスケジュールなどを書いたチラシがたっぷり。そこに和田誠のイラストが描かれている。
 たとえば上映中の作品が『クレオパトラ』なら、イラストで主演のエリザベス・テイラーがそれらしく、『アパートの鍵貸します』だと、ジャック・レモンのイラストとか、それはそれは贅沢なチラシなのだ。

閲覧数 (51008)
  • 2019/11/01
  • 執筆者: Yamaoka (5:44 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第5回「八千草薫と、すっかり小ぎれいになった川崎」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 昭和の大女優・八千草薫が亡くなった(享年88)。
 最初に思い浮かんだのが、テレビドラマ『岸辺のアルバム』(1977年 山田太一脚本)での不倫に走る母親役だ。平穏に見える中流家庭が徐々に崩壊してゆく過程に、多摩川の氾濫で住宅が流されてゆくニュースがかぶさるさまが、これまでのホームドラマにはないリアリティがあった。
 その『岸辺のアルバム』は、この10月の台風19号での多摩川氾濫の際も話題に出たけど、台風では多摩川周辺と武蔵小杉のタワーマンションが大変なことになった。その武蔵小杉は川崎市の北部である。昭和の頃の川崎のイメージと違う。
 川崎といったら、かつては工場労働者、風俗、ギャンブル、ヤクザというイメージが強い。こちとらが中学・高校時代を過ごした船橋も同じようなもので、あの頃(1960年代〜70年代)は、北の大宮、東の船橋、西の立川、南の川崎が、まあガラは悪い、ヤクザ・チンピラは多い、そのテの盛り場として共通するものがあった。
 それが今やどこもファミリータウンと化し、小ぎれいになってつまらなくなったね。特に武蔵小杉なんて、住みたい町の上位にランクされて大きな顔しているけど、電車の乗り換えはめんどうくさくて分かりにくいし、町も殺風景で、味わい深い昔ながらの商店街もない。わしは頼まれても住みたくないぞ。
 前回取り上げた「東京ブラックホール」で描かれていた東京オリンピック(1964年)当時の東京で、排気ガスと煤煙のスモッグだらけで子どもたちが咳込んでいるシーンがあったが、特に川崎は大工場が多くひどかった。そして川崎名物といったら今はなき川崎球場(大洋ホエールズの本拠地。1960年に奇跡の日本シリーズ優勝!)、直接行ったことはなかったが、映像や写真で見ると、工場労働者や店員の兄ちゃんがわんさといて、独特な雰囲気だったらしい。

閲覧数 (44970)
  • 2019/10/16
  • 執筆者: Yamaoka (11:08 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第4回「東京五輪の1964年は決して人情あふれるほのぼの時代じゃなかった」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 こないだ観た「NHKスペシャル 東京ブラックホール」(10月13日放映)は結構面白かったね。これは俳優の山田孝之扮する主人公が突然過去の時代にタイムスリップして、そこで生きてゆくというもの。
 フィクションと当時の記録映像をミックスして時代の雰囲気を出すというユニークな試みで、第1弾が敗戦直後の焼け跡・闇市の時代、そして今回が東京オリンピックの1964年なのだ。
 面白いのは、セットでのドラマと並行して、山田を当時の記録映像にはめこんでゆく手法だ。たとえば、当時の銀座の雑踏を山田が実際に歩いているように見せる。リアリティがあって時代の実感がつたわってくるってわけ。
 さて東京オリンピックの1964年といえば、戦後19年にして、高度経済成長で日本も様変わり、新幹線が走り、高速道路ができて、夢と希望にあふれた時代なんてイメージが一般的だろう。
 ところがこの番組は、むしろこの時代の光と影の「影」=マイナス面にスポットを当てる。冒頭、主人公は2020年五輪に向けた工事現場で働くが、タイムスリップした先も目前の五輪を控えた工事現場で、「そんなとこで寝てるんじゃねえ!」と早速ドヤされてあたふたする。
 この頃、東京は五輪を控えての工事だらけで、重労働に安全管理の杜撰さで転落死亡事故も続出。皆、劣悪な労働条件で働かされていたのだ。この時代はまた、集団就職で地方から続々中卒の少年少女が上京してくる。「金のタマゴ」なんてちやほやされているかと思ったら、低賃金・長時間労働でこきつかわれている。映像でも集団就職の少女たちが、上野あたりの「聚楽」のような大食堂で働いて、狭苦しい寮に何人も押し込まれ遊ぶ余裕もない様子が描かれる。
 一方で、丸の内あたりのホワイトカラーのサラリーマンとOLが優雅に銀座でデートしたりと、高度成長は格差を助長したのが分かる。

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  • 2019/10/04
  • 執筆者: Yamaoka (6:30 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第3回「すっかりいなくなってしまったプレイボーイ、高等遊民」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。.

 最近そういえば「プレイボーイ」って言葉、あんまし聞かなくなってきたね。直訳すれば遊び人か。でも、ちょっとニュアンスが違う。ズバリ、『週刊プレイボーイ』は今でも健在だが、電車の中や喫茶店とかで読んでる若者って見たことない。自分もここ何十年も買ったことなく、せいぜい新聞広告で見出しを追うくらいだが結構、政治問題でも真っ当で。老人対策週刊誌ばかりのなかでは、昔ながらの路線で頑張っているようだ。
『週刊プレイボーイ』の創刊は1966年。
 ライバル誌の『平凡パンチ』が1964年。いずれも初めての本格的な青年向け週刊誌だったのだ。創刊を宣伝するキャッチが「国際感覚あふれる新男性週刊誌誕生」だもん。売りはヌードグラビア(外国人モデルが多かった)、車、ファッション、音楽、映画、旅行、海外の流行と、まあ先端を行く若者にとってパンチとプレイボーイは必須アイテムだったわけだ。
 こちとら中学生の頃(66年〜68年)は、兄貴がいる友達の家に遊びに行くと、大体パンチかプレイボーイがあって、ヌードグラビア見て「おおっ、すげえ!」なんて興奮していた(昭和のガキだね)。その頃、プレイボーイの人気コーナーで人生相談っていうのもあって、作家の柴田錬三郎が軟弱な若者を叱りつけるようなこと言っていた記憶がある。
 1970年代に入って大学に入ると、もうパンチやプレイボーイを読んでいる学生は田舎者とかダサいなって雰囲気になってきた。あの頃は、外車乗り回してナンパしているような学生もチラホラいた。見るからに高そうなファッションで、大学にも教科書も持たずに手ぶらで来たりね(それがカッコイイのか)。でも、本物のプレイボーイって多分週刊誌なんか読まないだろう。
 そういえば最近、大学の近くなんか歩いていても、プレイボーイ風の学生っていないね。ほとんど地味で、真面目に授業で出て、紳士服チェーンで購入したようなダサい黒スーツで就活している。
 それから、車だナンパだのといったプレイボーイではなく、高等遊民てのもいなくなった。

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  • 2019/09/20
  • 執筆者: Yamaoka (3:11 pm)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第2回「マカロニ・ウエスタンがB級とは言わせない」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 前回も少し触れたクエンティン・タランティーノ監督の新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』では、1969年当時のネタが盛り沢山だけど、なかでも印象に残ったのがマカロニ・ウエスタンがらみの話だ。
 レオナルド・ディカプリオ扮する往年の西部劇スターが、落ち目になりイタリアまで遠征してマカロニ・ウエスタンでなんとかしのぐというもの。実際、テレビのヒット番組『ローハイド』で、カウボーイ役で人気があったクリント・イーストウッドが、その後のハリウッドではパッとせずに、マカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』で大ブレイクしたのは有名な話だ。
 日本でも最近はマニア向けの解説本などが続々出ているけど、正統派西部劇ファンに言わせるとマカロニなんて邪道、B級、格下扱いで、そもそもマカロニ・ウエスタン(アメリカではスパゲティ・ウエスタンなんて呼ばれていたらしいが)なんて呼び方からして、ゲテもの扱い。当時は残酷西部劇なんてレッテルを貼られたりした。
 確かに残酷なバイオレンス・シーンが目玉で、ヒーローも無精ひげで汚れた感じ、拳銃の音も独特で、おまけに音楽がディープな雰囲気を醸し出す、なんともいえないジャンクな味わい、そこがまた魅力的だったのだ。
 小生が初めてマカロニ・ウエスタンを映画館で観たのは1966年、中学1年生の時だ。家の近所にあった3本立ての場末の名画座(トイレの芳香剤の匂いが漂ってくる。タバコを吸っている客もいた)で、『続・荒野の用心棒』(セルジオ・コルビッチ監督)という、主題歌の「ジャンゴ」が大ヒットして主演のフランコ・ネロが後に大スターになったマカロニファンの間ではトップ3にランクされるほどの作品なのだ。

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  • 2019/09/06
  • 執筆者: Yamaoka (12:26 am)

<復活!!>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第1回「ピーター・フォンダに捧ぐ」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 ごぶさたで〜す。帰ってきた「昭和カルチャー」のこの連載ーー最終回(第43回)は2012年の7月だから、あれから7年。平成も終わって、昭和はふた昔も前になってしまったぞ。
 しかし連載当時よりも、世代を越えて昭和カルチャーへの想いは強くなっている気がするね。最終回で取り上げた女優・水野久美も80歳になり、ここんとこはテレビ朝日の『やすらぎの刻』(倉本聰脚本 昭和の名役者たちが続々登場)でも、女優健在で嬉しい。
 昭和の役者といえば今年上半期の大ニュースが、ショーケン(萩原健一)とユウヤ(内田裕也)が亡くなったことだ。二人については、追悼特集や名画座でも上映会なども盛んだったが、最近のニュースではピーター・フォンダが亡くなった(享年79歳)のに、扱いが小さいのが気になったな。
 しばらく前から昔の人という印象だったが、ピーター・フォンダといえば最初に思い浮かぶのが『イージー・ライダー』(監督はデニス・ホッパー。共演はジャック・ニコルスン)。今年が製作から何と50年(日本公開は1970年)だ。ベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が盛り上がり、ヒッピー・カルチャーとウッド・ストック野外コンサートなど、1969年はカウンター・カルチャーの年だった。ニューシネマでおなじみの作品は『俺たちに明日はない』『真夜中のカーボーイ』『明日に向かって撃て』『いちご白書』などが思い浮かぶけど、なかでも特に『イージー・ライダー』は時代を体現していた。長髪、ヒゲ、バイク(チョッパーハンドル)、放浪、自由気まま、などなど、南部の保守系白人が「このクソヒッピー野郎が」と敵愾心むき出しになるさまが、かえって今のアメリカと重ねるとリアリティがある。

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  • 2012/07/27
  • 執筆者: Yamaoka (3:24 pm)

『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第43回(最終回)「フィナーレは水野久美」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 最終回である。100回くらいは続けたかったが、またどこかで再開するかもね、しばしお別れ。しかしまあ皮肉なことに最後なのにネタが山のように押し寄せてきちゃったよ。
 何十年ぶりかでデモは盛り上がるし(ジグザグデモは復活しないのか)、「『三里塚の夏』を観る」(DVD付き、太田出版)は刊行されるし、地井武男は急死するし(『非行少年・若者の砦』を公開してくれ!)、報道写真家の鏡・福島菊次郎のドキュメンタリー映画『福島菊次郎90歳 ニッポンの嘘』は公開されるし(8月4日?銀座シネパトス)、傑作テレビドラマ『大都会』が全編DVDレンタル可能になったし、初めて封切りで観た怪獣映画『キングコングVSゴジラ』から50周年の夏休み、とそれだけでも6回分はあるぞどーする? いやいや何にも増してフィナーレにふさわしいネタがあった!
 それは我が永遠のヒロイン・水野久美なのだ。『女優 水野久美』(樋口尚文著 洋泉社)刊行を記念して、水野久美映画祭(8月11日?24日 銀座シネパトス トークイベント&サイン会もあり)が行われる。今まで生きててよかった。わしが水野久美に恋心を抱いたのは、今から47年も前、12歳のときだった。
 その年の夏休みに公開された『フランケンシュタインVS地底怪獣バラゴン』のヒロイン、若手女科学者、顔立ちは派手めで、どちらかというとギャングの娼婦てな感じなのだが、怪獣映画に妙にフィットして、相手役のニック・アダムス(こちらも科学者)に色目を使っていそうで、巨大化するフランケンシュタインの怪物からも慕われているところがグッときた(バラゴンに食われそうになる寸前にフランケンに助けられるシーンが最高)。


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  • 2012/06/27
  • 執筆者: Yamaoka (11:30 am)

『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第42回「スカイツリー開業と錦糸町の立場」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 取材もかねて行ってきたんだ東京スカイツリー。ただしもちろん展望台には上ってない。もっぱらグルメ(B級)がらみで、ソラマメじゃなかったソラマチ行ったり、押上とか業平の商店街散策を何回か試み、食べまくったわけだよ。ただしこの連載は、どの店が美味かったの不味かったのをやるのではないから、スカイツリーの観光客引き寄せ戦略(というか魂胆)と昭和ノスタルジーとのからみで、言いたいことがあるってことさ。
 あのソラマチというのは、ありがちな観光客向けショッピングモールで、東京タワーやお台場(レトロ商店街なんかね)、江戸東京博物館、浅草仲見世あたりの要素はスパイス程度にして、船橋ららぽーとやイオンを混ぜこぜにしたようなボリュームで客を一気に吸収しているわけだよ。おかげで、がっくりきたのはまずは押上商店街でないのか。
 だってスカイツリーにもっとも近い駅は押上だっていうのに、さびれてこのままだと地方都市で見かけるシャッター通り化する運命だった。ところがスカイツリーのおかげで大勢の観光客がさぞや地元商店街でショッピングしていただける、と思いきや、実際ほとんど流れない、こんなはずじゃなかったってかオイ!


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  • 2012/06/06
  • 執筆者: Yamaoka (9:40 am)

『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第41回「ダークシャドウと1972年」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 先日観た映画『ダークシャドウ』(監督ティム・バートン、主演ジョニー・デップ)は、ジョークとパロディ満載の怪奇ホラーものとしても楽しめたが、キモは、ヴァンパイアが200年を経て復活する時代を1972年に設定したことだね。当時の風俗、ファッション、ヒット曲などの空気感が、大時代的なゴシックホラー調と合わさってなんとも味わい深い。
 たとえば屋敷に住む15歳のロック好きとんがりネエチャンが、家庭教師の女を指して「カーペンターズが好きなんて(超ダサ)」とおちょくると、ジョニー・デップ扮する200年前のヴァンパイアが、「大工(カーペンター)が好きだって?」なんて勘違いのやりとりとか、ラブ&ピースのヒッピーたちとヴァンパイアの変なコミュニケーションとか、伝説のロック・ミュージシャンであるアリス・クーパーが本人そのまま登場で歌うとか、いろいろあるので、70年代フリークは見逃せない。その72年といえばもう40年前、連合赤軍事件と沖縄返還の年でおなじみだが、映画に関しては、なかなか面白い年だった。
 当時、高校3年から浪人(予備校は行かず)のこちとらは、シラけた気分を抱えながら、映画三昧の日々だった。映画日誌と星印の採点表をつけて自分だけのベスト10をつくったりしていた。安い名画座、三番館もたくさんあって、夏には「ぴあ」も創刊されたが、御茶ノ水や早稲田などの学生街を歩いていると、よく自主上映会のポスターが貼られていたりして、街頭が情報源だったわけだ。洋画では、『時計じかけのオレンジ』『わらの犬』『脱出』『ソルジャーボーイ』『ダーティハリー』『フレンチ・コネクション』『ゴッドファーザー』『死刑台のメロディ』なんてのがお気に入りの上位で、日本映画は『女囚701号さそり』『現代やくざ・人斬り与太』『狂犬三兄弟』『昭和おんな博徒』『日本暴力団・殺しの盃』『軍旗はためく下に』『白い指の戯れ』『追いつめる』『天使の恍惚』なんてのが上位と、なかなか充実のラインナップだ。


閲覧数 (99657)
  • 2012/05/23
  • 執筆者: Yamaoka (12:10 pm)

『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第40回「昭和40年代にはすべてが詰まってた」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 こないだ買って読んだ『現在につづく昭和40年代激動文化(ラジカルチャー)』(伊達政保著 汎世書房)は、記憶が刺激される本だった。発売は1月だが、ずっと気になっていたのだ。著者の伊達政保氏は1969年中央大学入学、激動の時代を全共闘で走り、新宿区役所職員時代に配転に抗議して何と切腹!して懲戒免職、市民運動から河内音頭、ジャズまで文化方面も幅広く、あの時代から現在まで全身カウンターカルチャーを体現してきた先輩的存在だ。
 本書は、1997年から2011年までの時評・文化コラムを編んだものだが、60年代、70年代といった時代区分ではなく、昭和40年代という区分にこだわっているのが面白い。確かに、政治・社会運動からカルチャー全般、風俗・ファッション、メディアまで昭和40年代でくくるとあらゆるもののニューウェーブの推移が詰まっていて、ホンマに分かりやすい。
 しかしだ、たとえば昭和30年代だと『三丁目の夕日』のように昭和レトロで何かと語られるが、昭和40年代はどうしたこうしたはほとんど聞かない。「60年代カルチャー」とか、「1968年の革命」とか、「1972年が終わりの始まり」だとか、何かと意味付与されるのは西暦のくくりだ。こちとら昭和40年代は、小学5年から大学2年までまたがる、まさに物心ついて、上の世代の流行にあこがれながら、最後はシラケの時代でしめるという、ところか。そこでこの10年を特徴づける3つのキーワードで表してみようと考えたところ「エレキ、ホラー、暴力」の3つが浮かび上がってきた。


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  • 2012/05/08
  • 執筆者: Yamaoka (12:30 pm)

『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第39回「夜行バス乗るなら夜汽車を復活しろ」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 例の大事故で、深夜高速格安バスが話題になっているわけだが、まあ規制緩和の悪夢、目を覚ますべきはドライバーだけじゃない、安いからって殺到している客だろう。それにしても最近じゃ、この手のバス旅がやたらと目立つ。その一方で、気がついたら廃れてしまったのが夜行列車だね。
 昔の歌謡曲の歌詞には、恋に破れた女が夜汽車に乗ってとか、かけおちしたカップルが夜汽車にとかいうシチュエーションが多かった。はしだのりひことクライマックスの「花嫁」(1971年)なんて「花嫁は夜汽車に乗って嫁いでゆくの?」だもんね。今だったら「花嫁は終夜高速バスに乗って嫁いで?」なんてことになるのか?しかし、よくよく考えてみたら、何で嫁ぐのにわざわざ夜汽車に乗るのか? 夜逃げでかけおちか、貧乏なのか、どうでもいいんだけど、夜汽車にはバスにはない風情がある。
 ところで、わしは中学、高校とも修学旅行の帰りは夜汽車だったのだ。中学が1968年、行き先は京都、奈良の定番コース。行きは品川駅始発の修学旅行専用電車(確か「日の出号」だったか)で、京都まで途中停車もないのに6?7時間もかかったのだ。これが帰りは、夜遅くに京都を立って、早朝に東京に着くんだが、座席が普通車の固いタイプだからくたびれるんだ。格安高速バスの座席が天国だっていうくらいさ。高校(1970年、2年生)では、さすがに行きは新幹線だったが、帰りはまたも夜汽車だもん。貧しいというか、長閑な時代だったわけだよ。


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