お知らせ

○重大なお知らせ

本HPは6月22日(金曜日)を持って完全移行します!

従来のシステムが古く限界に近づいたため、6月22日(金曜日)からまったく新たなHP(https://access-journal.jp)を構築、そちらに完全移行します。
それと同時に料金体系も一新。個人に関しては月額800円(+税)のクレジット決済のみに統一します。法人に関しては料金体系は従来通りで、銀行振込も可能です。

したがいまして、有料講読入会も6月22日(金曜日)以降は、新しいHPの方でお願い致します(このHPからの入会は絶対にしないで下さい。万一、誤って入会されても返金致しかねます。)

もちろん、すでに入会いただいている方におきましては、最大1年間、このHPは閲覧専用のために残しますし、その間の新規記事も新しいHPと並行し掲載することで不利益を被らないようにしますのでご安心下さい。

本紙「アクセスジャーナル」をいつもご覧いただき、本当にありがとうございます。
これを契機に利便性、セキュリティー、そして記事内容もさらに向上させて行きますので、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

最新エントリ
  • 最新エントリ配信
  • 2011/08/31
  • 執筆者: Yamaoka (1:30 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第23回)「怪獣と日本人のご都合主義」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 『モスラ』公開(61年)から3年後、『モスラ対ゴジラ』が公開された。水爆実験の恐怖の象徴たるゴジラと、平和の象徴モスラが人類のために戦うという善悪対決パターンものであるが、戦後と原子力をからませて観ると興味深いものがある。
 たとえば、新聞記者の宝田明と星由里子が、ゴジラに蹂躙される日本の特使(?)としてインファント島に出向き「モスラの力をお借りしたい」と懇願すると、酋長から「お前たち、悪魔の火(水爆のこと)をもて遊んだ罰だ」と一蹴される。すると星由里子は、罪もない人々がゴジラによって命を落しているのですと泣き落とし。結局、モスラは死に瀕した老体でゴジラに向かってゆくが。ここで思うのは、東京オリンピックを控えてすっかり平和ボケして、被害者意識丸出しの日本人の姿だ。しかしこの身勝手な記者に扮した宝田明と星由里子の二人は3年前、ある映画でなんと第三次世界大戦=核戦争の恐怖に直面していたのだ。


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<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第22回)「映画『原子力戦争』と福島第一原発』

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 前回の『モスラ』に続いて、『モスラ対ゴジラ』と放射能のからみを取り上げる予定であったが、たまたまある上映会で故・原田芳雄が主演した『原子力戦争』(1978年、黒木和雄監督)を32年ぶりに観て、いろいろ考えることあったので、『モスラ?』は次回。
 映画『原子力戦争』の原作は、あの田原総一朗。原発の闇を描いた小説仕立てのルポルタージュのような長編だが、ちょうどテレビディレクター(1969年頃は『ドキュメンタリー青春』という連続ドキュメント番組を東京12チャンネルで手がけていたのだ)から、もの書きに移行した頃だったか。映画は、原作を下敷きに、原発事故隠しをめぐる事件を、都会から原発のある町にやってきたやくざ者(原田芳雄)を主人公に、ポリティカル・サスペンス&ATGらしい不条理劇として展開する。さて、32年前にはピンとこなかったこと、それは舞台が福島第1原発だってことなのさ。
 映画のなかで、原田芳雄が勝手に原発に入ろうとして、警備員に止められるシーンがある。やけに警備員のセリフや振る舞いが自然だな!と思ったら、実際にゲリラ撮影を断行して、ここだけドキュメンタリーになっているのだ(警備員が次第に怒り出して手でカメラをさえぎったりして)。さらに今になってズシンと迫ってくるのは、地元の漁業組合長が、いかに原発のおかげで町が潤ったのか。原発事故の隠蔽を追求しようとした新聞記者(佐藤慶好演!)が、上司の支局長から書くなと迫られ、挫折するところ(そんな事例は実際に無数にあったのだろう)。事故の隠蔽に加担した御用学者(岡田英次好演!)が佐藤慶に説く原発必要論。こういう御用学者が、実際の3・11以降のメディアで似たようなことをほざきまくったわけだよ。


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  • 2011/08/03
  • 執筆者: Yamaoka (1:50 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第21回)「モスラ生誕50年と原子力」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 この7月30日は、あの『モスラ』公開からちょうど50年だ。銀座のシネパトスでは、「モスラ誕生際」と称したイベント(映画上映とゲストのトーク)をやっていた。残念ながら用事で行けなかったので、レンタルにて初代『モスラ』DVDを借りて久々に堪能したのでした。最初に観たのは、小学2年生のとき、生まれて初めての本格的怪獣映画体験だったもんで、奇想天外なお話と特撮に夢でうなされたもんだ。1961年という時代は、映画会社もまだまだ景気の良い時代、ぜいたくなつくりは、今見直しても大人の鑑賞に堪えるハイレベルな怪獣映画といえるだろう。さて今回は、ただ50年前のモスラを懐かしむだけではない。モスラと原子力の関係を考えてみるかって話だ。初代『ゴジラ』(1954年)が水爆実験の産物で、核・放射能の恐怖をダイレクトに想起させる映画だったのに比べ、モスラは存在そのものも平和の使者のイメージが強い。しかしあらためてじっくり観ると結構エグい話なのだった。
 モスラが生まれたインファント島という南洋の架空の島は、アメリカ(映画ではロリシカ国)の核実験の影響で死の島と化した。ところが、巨大化したカビのような胞子植物から作られる「赤い水」によって、先住民は放射能汚染されず、島の自然も維持された。モスラは島の守護神という設定で、悪徳興行師にさらわれた「小美人(ザ・ピーナツ好演の双子の妖精)を奪還するために、東京もニューヨークも滅茶苦茶に破壊する。よくよく見てると核実験の犠牲者が、モンスターの力で文明それも核の傘の下で繁栄する日本とアメリカへ復讐している姿のようだ。


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  • 2011/07/20
  • 執筆者: Yamaoka (1:20 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第20回)「若き日の原田芳雄をこの作品で」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 この7月30日は、『モスラ』生誕50周年(封切が、1961年7月30日だった)だというので、モスラと原子力の関係でも書こうかなと思った矢先、原田芳雄の訃報が飛びこんできた! テーマ差し替え。モスラは次回だ。原田芳雄については、報道でもコメントでも追悼文でも、出るだろうおなじみの作品の話は思い切って省いて、ここでは多分、ほとんど触れられない話を。
 ちょうど1カ月前、その昔(1966年頃)テレビで放映して、映画にもなった社会派ドラマ『若者たち』の6話分ほど、レンタルDVDで見ることができた。放映時は中学1年、時々は見ていたが、もう45年ぶりだからね、何たって66年といったら、ビートルズ来日に、『ウルトラQ』(これまた今度、カラー映像にして甦るのだ!)の年だ。それで『若者たち』だが、そのなかに、意外な1本を発見したのだ。何と、まだ俳優座の駆け出し役者(映画の主演デビューは68年)時代の若き原田芳雄が、学生運動の闘士として登場(この回だけのゲスト)しているのだ。


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  • 2011/07/06
  • 執筆者: Yamaoka (1:10 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第19回)「映画『マイ・バック・ページ』と失意の1979年」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 前回の続きで『マイ・バック・ページ』のお話であります。映画のラスト近く、時代は1979年、すでに「事件」も過去のことである。川本三郎自身である映画の中の「沢田」も、映画評論家として『キネマ旬報』(これは映画でも実際の誌名が出てくる)に書いたり、細々であるが一目置かれる存在になっていた。試写会のシーン、映画は『十九歳の地図』(原作は中上健次、監督は柳町光男)。振り返れば、1971年に沢田とあのモデルが一緒に観た映画は『ファイブ・イージー・ピーセス』であった。共通するのは、ダメ男が主人公の沈うつな映画であることだ。それは、沢田自身の心情と70年代の失意の足跡に重なるし、それぞれの時代の気分とやらにもぴったりとフィットする。沢田は試写の上映のあと、編集者たちの誘いも断り、一人で居酒屋に行くのだが、わしは思わずうなった。それは、初めて川本三郎の本(『シネマ裏通り』)を買ったのも、実物の川本三郎を見たのもこの1979年だったことを思い出したから。
 あれは5月頃だったと思う。五反田東映シネマという今は亡き名画座で、東映の工藤栄一監督が久々に新作を撮るというので、旧作の上映とトークのイベントが行われた。旧作は、あの有名な『十三人の刺客』、『大殺陣』『十一人の侍』の3本、そして話題の新作が何と『その後の仁義なき戦い』。すでに、東映やくざ映画も衰退期に入り、70年代を席捲した『仁義なき戦い』をはじめとする実録路線も終わり、深作欣二監督もこの頃は時代劇や角川のSF大作を手がけていた。そんななかでの『その後の?』は、主人公も根津甚八、宇崎竜童、松崎しげると、異色のキャラクターが並び、やくざなのにダメ男だらけなのだ。


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  • 2011/06/21
  • 執筆者: Yamaoka (6:50 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第18回)「映画『マイ・バック・ページ』=1971年の思い出」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 観てきましたよ、『マイ・バック・ページ』。良いとこも不満なとこもいろいろあるけど、あの時代を知らない若い監督、脚本(30代)のセンスと感性は、団塊の世代ノリよりは新鮮ではあった。前回も書いたように、激動の年の割には、意外に見落とされている1971年、こちとら高校2?3年生で映画で描かれている「事件」については、何とも不可解というか、映画のなかの『週刊東都』のカバーガール(忽那汐里)が主人公に吐いたセリフを真似すれば、何とも「いやな感じ」がしたことが記憶に残っている。ちなみにこのカバーガールは実在のモデルがいて、川本の原作の中でも描かれているが、少女時代からモデル、タレントだった保倉幸恵。彼女は1970?71年の2年間『週刊朝日』のカバーガールに起用され、「今週の幸恵」という味わい深いミニコラムも書き、その後、1975年に鉄道自殺する。同じ1953年生まれ、そういえばなあって記憶が甦ってくる。映画では登場シーンも少なく、事件とも無関係なのだが、実は重要な役回りなのだ。
 一つは、彼女が妻夫木聡扮する沢田(川本のモデル)と映画に行くシーン。映画は、当時後期ニューシネマとして評判の『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970年米映画、日本公開1971年、ボブ・ラフェルスン監督、ジャック・ニコルスン主演、今は亡き飯田橋佳作座で観たよ。)で、終わったあとに、沢田は彼女に、「つまらなかったね」と(どうせ高校生の小娘が、こんな暗い映画好みじゃないだろうって感じで)言うと、彼女は意外にも「よかった」と、しかも男が泣くところが良いのだと、『真夜中のカーボーイ』のダスティン・ホフマンと併せて誉めるのだ(このシーンはラストの伏線になっている)。ここはなぜ『ファイブ?』なのかがドンピシャとくるんだ。これが団塊世代の作り手ならば『イージーライダー』や『いちご白書』あたりを持ってくるのだろうが、それじゃダメなのよ。

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  • 2011/06/07
  • 執筆者: Yamaoka (1:20 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第17回)「1971年とジェーンフォンダ」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 映画『マイ・バック・ページ』のことを書かなくちゃと思ってたが、まだ見てない、感想は次回で。今回は、そのいろんなことがあった1971年について、思い出したのは来日した女優ジェーン・フォンダと握手したってことだ。ジェーン・フォンダといったら、その2年ほど前までは、セクシー女優というか、典型的なアメリカンお色気ねえちゃん。ともかく大スター。周りの映画好き高校生の間でも『バーバレラ』『獲物の分け前』なんて主演作が評判だった。そんな彼女が、ベトナム反戦運動真っ盛りの70年頃、あれよあれよという間にバリバリの反戦運動の闘士となってしまう。さすがに大女優だけあって闘士になっても、映画の主演が相次ぎ、70年の『ひとりぼっちの青春』なんて、風貌がすっかり変わっていた。野次馬ミーハーのこちとらとしては、どっちも好きだけど。そんな1971年の暮れ、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の招きで、ジェーン・フォンダやドナルド・サザーランドらが中心になってつくった兵士のための反戦ミュージカル劇団が来日したのだ。
 東京公演の会場は千駄ヶ谷の東京体育館、前座は頭脳警察、本編の反戦ミュージカルは字幕がないので、何だかよく分からなかったが、そんなことより、あこがれの大女優が目の前にいるだけで夢のようだった。終了後、何人かの友達と一緒に楽屋裏の出口で待ち構え、出てきたジェーン・フォンダに握手を求めたのだった(まったくミーハーだねえ)。そばで見たら、ノーメイクで普通の気さくな人ってイイ感じであった。この人が『バーバレラ』の主役だったとはねえ、なんて感無量というのか、拍子抜けしたような。激動の年、1971年にはこんなドラマもあったのさ。


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  • 2011/05/24
  • 執筆者: Yamaoka (9:20 am)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第16回)「岡田茂の死と高倉健」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 日本映画界のドンと言われた東映名誉会長の岡田茂が亡くなった。思い出すのは1973年、東映で『仁義なき戦い』が大ヒットした時、衰退しつつあったメインのやくざ映画路線で新たな地平を切り拓いたとインタビューを受けているシーン、これがまたえらく豪快で威勢がよくて、口八丁のテキヤの親分みたいな印象。東大(帝大)出の文学青年、若きプロデューサー時代は、あの『きけわだつみの声』で当てた人とは思えなかったぞ。意外といえば、息子の岡田裕介。その頃、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(70年)に始まる東宝青春映画の一連の路線で、いつも優柔不断なおぼっちゃま風の若者役が似合っていた。当時、東映実録路線を追いかけながら、60年代の東映、日活を中心にハードなアウトローものにはまっていたこちとらからみれば、岡田裕介なんて対極的な「軟弱男」だったわけさ(その後は親父のあとをつぐのだが)。さて今回の件で、う?む、と考えてしまったのはもう一つ、高倉健はどうなのってことだ。
 高倉健は、『昭和残侠伝』や『網走番外地』シリーズのようなヒット作でスターになったのだが、70年代以降はやくざ映画を嫌がったらしく『仁義?』など実録路線にも出ていない。一方で、山田洋次の『幸福の黄色いハンカチ』で新境地、以降『冬の華』『八甲田山』『動乱』『居酒屋兆次』『駅』『鉄道員』など、どちらかというと文芸大作の方面に行くと。こういうのが、映画俳優としての理想のあり方みたいに語られたっけ。

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  • 2011/05/09
  • 執筆者: Yamaoka (7:40 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第15回)「280円のユッケ食中毒事件に思う」

筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 今回も「3・11」でテーマを考えていたところに何と、焼肉チェーン店でユッケを食べた客に食中毒で死者4人(5月8日現在)、重傷者多数という想定外?の惨事が起きた。
 そこでこの話題に切り替えだ。ただしこのコーナーは、事件の背景や深層を究明するものではない。そこから見えてきた昭和のイメージに結びつける。つまり、牛生肉ユッケ280円で提供という倒錯した外食の「常識」の源流はどの辺りにあったのかってことだね。
 思い出すに、少なくとも小?中学生時代(1960?71年)、牛肉ははっきり言って高級だったよ。テレビドラマでもマンガでも、ごちそうの場面にはしばしばすき焼きが登場した。牛丼もハンバーガーもまだポピュラーなメニューじゃなかったわけさ。
 そんな中で、1971年の秋頃であったか銀座に「マクドナルド」1号店がオープンする。「売り」はビーフ100パーセント、値段は80円。といっても大卒初任給が4万?5万、日通で一日引越しのバイトをやって2千円、タバコのハイライトが80円、という時代だから、結構高級なのだ。高校のクラスメートで銀座に出向いて早速パクついたぜよ。銀座のホコ天で歩きながら味わうというのが「ナウいヤング」だ(当時、新発売のカップヌードルもホコ天で食べられたのだ)なんて言われていたが、実際は、不味くはないけど予想していたよりもパサパサした薄っぺらい(要するに今と同じなんだが)バーガーだなあって印象だったな。むしろ、おやつメニューのホットアップルパイ(ああいうのは今までなかった)のほうが美味かったぞ。

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  • 2011/04/26
  • 執筆者: Yamaoka (12:50 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第14回)「スーちゃんと『黒い雨』と放射能」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 2回にわたって、放射能と映画について書いてきたんだが、今回もまたその話題。というのは、スーちゃん(田中好子)の死でクローズアップされた、女優として高い評価を得た『黒い雨』(1989年、今村昌平監督)。広島の原爆投下後の黒い雨=死の灰の恐怖と蝕まれてゆく身体、戦後続いた「原爆症」への差別・偏見は、まさに今日の原発事故をめぐる恐怖と差別に通底する。25日の告別式で披露された震災被災者へのメッセージは、原発への怒りも込められていると見たぞ。その怒りは、『黒い雨』に打ち込んだからこそだと思う。だってその時間に天候も急変、千葉県では竜巻まで起こったじゃないかよ。
 その前日、たまたまBSで放映していた日本映画『若者たち』(1967年、森川時久監督)を見ていたら(43年ぶりだ!)、佐藤オリエの恋人役の石立鉄男(初々しい青年だった)が、広島で被爆していた。戦後22年という時代のなかで、重くのしかかってくる差別がダイレクトに描かれているわけだが、これまた衝撃的。『黒い雨』も『若者たち』も、共通するのは原爆だが、昨今の風潮につながるものがある。ひと昔前までは、歴史の彼方になりつつあったものが、リアルな今日的なテーマとなって浮上したというわけだ。


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  • 2011/04/12
  • 執筆者: Yamaoka (1:30 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第13回)「今見たら意外と良かった『勇気ある追跡』」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 前回は、ジョン・ウェインは何故死んだか? と遺作の話で終わったわけだけど、そのジョン・ウェインが、悲願のアカデミー主演男優賞を手にしたのが、『勇気ある追跡』(1969年 ヘンリー・ハサウェイ監督)という異色西部劇。このリメーク版として先ごろ公開されたのが、コーエン兄弟監督の『トゥルー・グリット』である。こちとら『勇気ある追跡』は、何年か後にテレビで見て、『トゥルー・グリット』はこないだ映画館で見てきたよ。
 実は『勇気?』のほうは、公開当時はほとんど見たいとは思わなかったのだ。というのは、69年当時といったら、アメリカン・ニューシネマ全盛で、ジョン・ウェインに体現される往年のマッチョ・ヒーローはもうお呼びでなかった。おまけにこの頃のジョン・ウェインといったら、ゴリゴリのタカ派、ベトナム戦争を扱った『グリーン・ベレー』(68年)もひどい出来で、映画好き少年の間でも、ジョン・ウェインはもうダメだし状態、その一方で、『明日に向って撃て』『さすらいのカウボーイ』『ワイルドバンチ』なんてのが、ニュー西部劇ともてはやされたっけか。
 ところが、テレビで何となく見ていた『勇気?』が意外と良かったのだ。14歳の娘が殺された父の敵討ちに、大酒飲みの老保安官を雇って、追跡の旅に出るお話。小娘に翻弄されるジョン・ウェインが何とも微笑ましく、味わい深い、う?む、好きになりそう。考えてみれば、こういう設定もニューシネマ時代の投影ともいえそうだが、面白いのは当時小娘に扮したキム・ダービー、男の子のようなキャラクターでこれまたいい味をだしているんだが、何と2年後にはあの『いちご白書』で、学園紛争の活動家の役柄で一躍、有名になる。確か、ジョン・ウェインは当時、どこかの大学で、学生相手に大演説をぶって
「困ったオヤジ」状態だったそうだが、キム・ダービーの役柄を見たら、「相変わらずの小娘だな、へらず口だけは一人前だ、嫁の貰い手がなくなるぞ」とか何とか、ぼやいたかも知れない。



閲覧数 (20792)
  • 2011/03/31
  • 執筆者: Yamaoka (8:30 am)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第12回)「放射能の恐ろしさを描いた映画なら、これ」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 3月11日以降はしばらく、さすがに思考も仕事もはかどらなかったが、腹の立つこと多く、言いたいことも山ほどあるが、ここは連載にふさわしいことを書かなくてはなりません。そんなわけで、ホットな話題に引きつけて、放射能の恐ろしさを描いた映画を考えてみた。といえば、第3次世界大戦=核戦争ものか、核戦争後の未来社会SFか、ヒロシマ・ナガサキか、ゴジラおよび突然変異怪獣ものか、原発事故か、などなど、そうなるとあの映画、この映画があとからあとから湧いてくる。そこで特に気に入っている、あまり知られていない映画を紹介しよう。
 特に、進行中の現実のなかで見れば一段と戦慄するだろうと思うイチ押しは、『魚が出てきた日』(1967年 イギリス・ギリシャ合作 マイケル・カコニヤス監督)。舞台はギリシャあたりの観光客が群れる海岸の町、ここに放射能物質を積んだ米国の飛行機が不時着。その危険な「箱」が住民たちに拾われてしまい、それを必死で探す乗組員らとのすったもんだの、すれ違いドラマがおとぼけコメディ調で展開する。併行して観光客は飲んで踊ってばかりで、このテの映画にありがちな深刻な社会告発とか、サバイバルサスペンス的な要素も乏しく、これは軽薄な脱力コメディではないかと誰しも思うに違いない。ところが、クライマックスで、一気に凍りつく。


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  • 2011/03/04
  • 執筆者: Yamaoka (3:50 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第11回)「戻れるならいつ!?」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 あの頃に戻りたいなんて、本当に戻りたい年を1年選べなんていったら、どこに人気が集中するかな。たとえば、昭和レトロ大好き団塊オヤジだったら、あの「三丁目の夕日」で描かれた東京タワー完成当時の1958年頃とか、政治も文化も激動の1968年頃になるんだろうな。さらに、バブルを満喫した世代なら、その頂点の1989年頃かな。
  しかし、過去は何でもユートピアのように美化されがち。たとえば、「三丁目の夕日」の時代なんて、環境最悪、インフラ整備もひどい、冬はしもやけ、あかぎれ、土ぼこりで結膜炎だハヤリ目だ、歯医者はこわいし、給食も不味い、栄養状態悪し、水洗トイレも少ないと、夜は真っ暗、大雨ふったらぬかるみ、と大変だ。68年も、スモッグ、排気ガス、ヘドロの公害問題、隅田川は近寄るだけで異臭が、駅のトイレ汚い、食品は添加物だらけ、映画館の椅子も劣悪だった。バブルだって、地上げ、人心荒廃、アホ学生続出、銀座で寿司食うOL、と、イメージ悪し。では戻ってみたい年なんてあるのか、あるんだよ。
  おすすめは1981?83年頃。なぜ、ここらがいいといえば、フリーランスで仕事する人、出版マスコミ、バイト生活(フリーターってことばはまだない)、風来坊や高等遊民の人、いずれにとっても過ごしやすく、世の中が大らかで、アバウトだったのだ。

閲覧数 (20112)
  • 2011/02/17
  • 執筆者: Yamaoka (5:20 am)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第10回)「ハンパじゃなかった東京の大雪」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 1967、68、69年連続したニュースや社会現象といえば、学生運動、フォーク、ヒッピー、アングラ、グループサウンズ、なんてえのがポンポン上がりそうだが、一つ、忘れちゃいけないものがある。それは3年連続の東京の大雪なのです。つい最近も、東京で2?3センチの積雪で大騒ぎ、転倒でケガ人続出だったらしいが、たかが数センチで何が積雪だ。昔は東京の大雪のスケールもハンパではなかったぞ。
 あらためて調べてみたところ、1967年2月12日は、東京で21センチ、68年の2月16日は、東京で23センチ、69年の3月4日は、東京で21センチ、さらに3月12日は、東京30センチ(東京郊外は実に40センチ)という記録的な大雪が続いたのである。ちなみにこの3年間は、自分の中学の3年間に重なり、よ?く覚えているぞ。その感触は今でもリアルなり。特にすごいのが、69年、3月4日の大雪による積雪が残っているのに、さらに上回る大雪のため、実際には30センチをさらに超える積雪感覚で風景はほとんど雪国、通学は一面銀世界の中を、長靴でズボッ、ズボッと慎重に歩むしかないと、信じられない非日常だったのだ。


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  • 2011/02/03
  • 執筆者: Yamaoka (8:30 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第9回)「中年御三家と1974年」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 先日、珍しく「徹子の部屋」を見ていたら、35周年スペシャル企画として、加藤武、小沢昭一、永六輔の3人がゲストに登場。3人とも、すっかり爺さんになってしまったが、その爺さんぶりがなかなかいい(黒柳徹子の婆さんぶりもキュートである)。考えてみれば、月曜から金曜まで、家で仕事をしているときは必ず聴いてるTBSラジオで、「小沢昭一的こころ」はもう38年、永六輔の「誰かとどこかで」は実に44年になるのだった。そこで、思い出したのは小生がまだ青春真只中の学生時代、1974年には、中年御三家(小沢昭一、永六輔、野坂昭如)のコンサートに、1976年には、「小沢昭一的こころ」の記念イベント(このときに上映された小沢主演映画が『大当たり百発百中』『ネオン太平記』)に行ったことだ。
 この中年御三家というのは、当時40代だった(いまどきの40代とは違って戦中体験もあってか老けていた印象)3人が、たまたま歌のほうも才能があって、おまけに話も面白く、なかでも野坂はこの年に参院選に出馬するなど、硬軟とりまぜての大スターだったこともあって、武道館が満員になったりしたのだ。こちとらが出向いたのは、学習院大学の学園祭で、ピラミッド校舎と呼ばれる大講堂が超満員だった。しかし、この1974年という年は、ドラマチックな年だった。


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  • 2011/01/21
  • 執筆者: Yamaoka (6:20 am)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第8回)「『ウルトラQ』も、甦れ!」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 今から45年も前(1966年)の1月、小学6年生の小生は、日曜日の夜が来るのを待ち焦がれていた。それは、東宝怪獣映画や戦争映画などでおなじみの特殊撮影の巨匠・円谷英二監督が率いる円谷プロ製作の連続SFドラマ『ウルトラQ』がスタートしたからだ。この頃の日曜日の夜といったら、夕方6時台から『てなもんや三度笠』、『シャボン玉ホリデー』、『隠密剣士』、『ポパイ』(その後は『オバケのQ太郎』)と、人気番組目白押しで、午後7時の『隠密剣士』終了後に満を持して登場したのが『ウルトラQ』なのであった。
 今年の正月も、銀座シネパトスで1日だけの『ウルトラQ』上映と往年の主演者らがトークするイベントがあって、多くの中高年が集まったというが、少年時代にこの番組にはまり、一生ついて回っている中高年は数多い(プラス『恐怖のミイラ』も上げたい)。
 なぜ『ウルトラQ』が、そこまで語り草になるのか。30分1話完結の怪獣中心の子どもだましのお話、映画に比べれば格段に安い制作費からくる貧相さ、これといったスターも登場しない。当時の大人たちは、その後の『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に比べて、暗くて地味な印象くらいに思っていたのだろう。しかし、『ウルトラQ』は一流であった。


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  • 2011/01/06
  • 執筆者: Yamaoka (5:30 pm)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第7回)「千家和也よ、甦れ!」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。


  師走のある日、ラジオを聴いていたら、ゲストに作詞家の千家和也が出て、1970年代の頃の歌謡界の話をしていた。
  千家和也といえば、「ひと夏の経験」(山口百恵)「終着駅」(奥村チヨ)「あなたにあげる」(西川峰子)「わたしの彼は左きき」(麻丘めぐみ)「年下の男の子」(キャンディーズ)「そして神戸」(内山田弘とクールファイブ)「なみだの操」(殿様キングス)などなど、1970年代のある時期の歌謡曲・流行歌、アイドルを語る上では不可欠の存在である。
 ただし80年代以降は、ほとんど聞かれなくなって忘れられた印象。同時代に活躍した阿久悠やなかにし礼に比べても、あまり注目されていないようだ。
 番組を聴いてあらためてびっくりしたのは、千家和也という人は、70年代当時はもっとコテコテトンコツ味風のおじさんだろうと思っていたのだが、何と1946年生まれ、全盛時代はほぼ20代後半から30歳くらい。しかも早大時代は、学生運動にはまり、いつも隊列の前へ出ては機動隊に蹴られて痛かった、なんて話まで出てきたことだ。同時代・同世代の作曲家のホープである都倉俊一とえらい違い。
 ところで、なぜ今、ここで千家和也を取り上げたのか。単におじさんノスタルジーではない。歌謡曲・流行歌が廃れてしまったこの時代にこそ、千家和也は、あるいは千家和也的なるものが出てこなければならないのではないか、な?んて思いが新年早々フツフツと湧き上がってきたというわけです。

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  • 2010/12/11
  • 執筆者: Yamaoka (10:00 am)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第6回)「邦画での警察の描かれ方」

  筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 前回に引き続き、警察・刑事ドラマの昔と今であるが、映画化された『SP』やNHKの『外事警察』あたりが、リアリティ&荒唐無稽パターンのきっかけだと思う。確かに、ひと昔前の、「人情刑事」ものや、「スーパー刑事」ものにはない斬新さはあるが、どうももう一つ、グッと迫るものがない。その理由はどうも警察が相手にする犯人側というか犯罪者・組織、得体の知れないエイリアンでも超能力者でも何でもいいけど、そこがどうも魅力が薄い。おまけに、警察官(大体、刑事だが)の側も「影」がほとんどないからだと思う。
 その昔、1970年代を中心に、映画でもテレビドラマでも、面白い警察ものが結構あった。主人公の刑事・警官役だけ追ってみても『県警対組織暴力』(菅原文太)、『やくざの墓場』(渡哲也)『やさぐれ刑事』(原田芳雄)、『野獣刑事』(緒方拳)、『その男、凶暴につき』(ビートたけし)、『0課の女・赤い手錠』(杉本美樹)などなど。さらに、主人公ではないが、やくざ以上に悪徳ぶりを発揮する『反逆のメロディー』(青木義郎)、『博徒斬り込み隊』とか、ずっこけ警官ものでは『暴走パニック大激突』(川谷宅三)も見逃せない。

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  • 2010/12/03
  • 執筆者: Yamaoka (7:50 am)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第5回)「韓国映画の警察の描かれ方」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

  間をあけてしまってすみません。連載再開します。
 またまた映画の話題から入りますが、最近観た新作で、拾いものだったのが韓国映画『黒く濁る村』。数年前、『シルミド』という衝撃作(この間の「北朝鮮砲撃」関係のワイドニュースで、南北対決の隠れた歴史を知る上で好適と紹介)を撮ったカン・ウソク監督の、何とも禍禍しく、殺気に満ちたミステリードラマだ。
 辺境の村で起きた大量死の惨劇から、30年の時を経て、殺人、不可解な死、新興宗教と救世主、村を牛耳る元刑事と元凶悪犯グループ、真相を探る青年、謎めいた村の女、左遷された検事などが、入り組んで、過去と現在をつなぐ異様な人間模様が浮き彫りにされてゆく。
 たとえば、ひと昔前の横溝正史、松本清張、さらには江戸川乱歩ものにも似たところはあるが、韓国映画ではここ数年の、『殺人の追憶』『オールドボーイ』『チェイサー』『母なる証明』などといった、意表をつくサスペンス&不条理&因果応報&社会矛盾といった流れで観たほうが分かりやすい。
 映画の話は、あとは観てのお楽しみとして、一連の韓国映画の話題作を観て感じるのは、警察や検察といった国家権力の末端の連中の描き方が、日本ともアメリカとも違ってやたら面白い。

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  • 2010/10/12
  • 執筆者: Yamaoka (8:10 am)

<新連載>『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』(第4回)「松方弘樹は不滅です」

 筆者・田沢竜次(フリーライター)。1953年東京生まれ。編集プロダクション勤務などを経て1983年からフリー。85年『月刊angle』連載を基に『東京グルメ通信・B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)を書き下ろし、また文春文庫の「B級グルメ」シリーズでも活躍。B級グルメライターとして取材・執筆を続け今日にいたる。一方、大学の映画サークルで自主上映するほど映画にも精通。著書に「B級グルメ大当りガイド」「ニッポン映画戦後50年」など。

 先日、話題の『十三人の刺客』を観た。1963年に公開された同名作品(東映、工藤栄一監督)のリメークで、昔のは1975年頃に名画座で出合い、以降ビデオも含めて4回観ている。集団時代劇といわれるリアリズム重視の集団切り合いの迫力は、モノクロ画面と、殺陣の見事さで今なお色褪せてない。
 それに挑んだ三池崇史監督は、大変な重圧だったと思う。出来は、不満もあるけど、焼肉バイキングのようで楽しめた力作だった。
 さて今回の話題は、『十三人の刺客』の13人のなかで最年長の役回りとなった松方弘樹である。1942年生まれで、もうすぐ70歳、あれだけの大殺陣=集団乱戦をこなすには、さすがに息切れもしようが、なによりこの年でこの貫禄、キャリアともなれば、もっと静かな存在感だけで見せる役を望むのかと思った。それが、斬った張ったで血みどろで息絶えるまで、もう37年も前の『仁義なき戦い』の頃ののりとほとんど変わらない。そこで思いました。あの時代=1970年代のバイオレンス・アクション、あるいはもっと前の、時代劇黄金時代からの、現場感覚を知り、現場感覚で動け、伝統の様式美も含めて、現役でやれるのは、もう松方弘樹だけではないのかって。


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