- 2011/04/15
- 執筆者: Yamaoka (9:10 am)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第16回「東日本大震災と敗戦(下)」
少し長くなるが「原発」に関して記しておく。
原発推進派と反対派の間には正と邪の不毛な二元論ばかりが半世紀もつづいた。原発は電気を作る科学技術のプラントである。安全性の検証はあってもイデオロギーとは無縁なはずである。そんな常識が通用しなかったのは唯一の被爆国といういびつな「被害者心理」もあった。
もう四〇年ほど前になるが昭和四〇年代の後半、青森六ヶ所村でむつ小川原開発が始まった頃、取材に行って魂消た。いまは使用済み核燃料再処理工場などが集結するいわゆる「核のゴミ捨て場」(不思議なことにいつまでたっても本稼働しない)だが、当初からその計画だったのだろうか、記憶は霞んでいる。
四、五年前に六ヶ所村を通ったときいくつものゴテゴテと飾り立てたキンピカ「核御殿」を見たが、その醜悪さは変わらない。何を得て何を失ったのか。原発に常につきまとう疑問の原体験となった。
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- 2011/04/13
- 執筆者: Yamaoka (10:30 am)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第15回「東日本大震災と敗戦(上)」
バブル以降「失われた二〇年」のだらだらとした、それでも強固だった日常という連続性が一瞬にして「非日常」に一変した。昨日までの時間は目の前でぷっつりと消えた。
テレビ画面に映し出されるパニック映画のような「現実」に失語した。文字どおり言葉を失ったのだ。唖然、興奮、放心、失意、怒り、不安、恐怖という生の感情に言の葉が届かない。ただ得体の知れない無力感と喪失感だけが重い空気のように身をつつんでいる。たれしも傍観者でいることはできない。
「3・11」からひと月を過ぎて、ようやく漠とした「天然の無常」を見つめる老爺が、ぽつねんといる。いまはただ頭を垂れて膝を屈し沈痛のまなざしで、この不条理に向き合うしかあるまい。
「3・11」は敗戦の申し子である団塊世代の愚老には遅れて来た「八月十五日」の宿命的な追体験のように思われてならなかった。
地震と津波で何もかも壊され流された荒涼とした風景を、みちのく太平洋岸の「焦土」に見た。肉親の命と住居、職場、生活のすべてを失った罹災者たちの呆然とした姿を見た。そこにあった町さえも跡形もなく消え失せたのだ。その地は再び多くの「いのち」を奪い去った。
みちのくは平安の昔、坂上田村麻呂の蝦夷征伐以来、いくさに勝ったことのない土地である。
みちのくには夏場にオホーツクからの北風、山背が吹く。その寒風は冷害の「飢饉」をもたらす。一方で「日照リノ夏」は旱魃で田畑は実らない。冬の寒さも厳しい。東北は近代までどの地方よりも「餓死」と背中合わせの過酷な風土だった。
つい六、七〇年前までみちのくでは間引きも、娘の身売りもあった。
だから宮沢賢治は「雨ニモ負ケズ」と唱えるしかなかったのだ。農村社会運動だけでは救われない。村の「宗教者」にならざるを得なかったのはその自然の過酷さにある。みちのくの人間ほど自然を畏怖し、自然に忍従する「耐える民」はいない。いま少しくこころ安らぐのは被災地にボランティアという名の多くの宮沢賢治をみるからである。
そこには寺田寅彦が『日本人の自然観』で書いた「天然の無常」という身に染みついた生きる「かなしみ」が連綿としてある。
だから老耄剥き出しの首都の知事の「天罰」発言はいくら撤回してみせても許せないのである。この傘寿にならんとする耄碌老人の世迷言には黙っていられないのである。一つ覚えの「物欲、金銭欲、性欲だけの日本人」に対する「天罰」だと思うなら、きっと首都直下型大震災が近い将来来ることになるのだろう。その前に放射能の「死の灰」が降るかもしれない。都民の不幸はこんな「裸の王様」を首長に戴くことだ。今回の選挙で致命的だったのは対立候補が全員ホーマツという悲喜劇さある。ついでに言えば三十年程の雑誌記者生活で、その傲岸不遜に殴りかかりたくなったのは青嵐会時代の石原とJC会長だった麻生太郎だけである。
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- 2011/03/08
- 執筆者: Yamaoka (1:40 pm)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第14回「取材記者をはじめた頃の思い出」
その前日に「かみゆき」が降って三〇糎近い積雪となった。東の川上から降る雪、太平洋の低気圧がもたらす湿雪は早い春の兆しのボタ雪である。
新聞で目黒の老夫婦殺傷事件の報道を見てある種の感慨に襲われた。人並みに仄聞はしていたがこの国の、特に都会の防犯カメラ網はかなり充実していたらしい。いつの間にか英国並みの「監視社会」が出来上がっていたようだ。
犯人は同世代の団塊老人だった。高速バスに本名で乗るあたりの間抜けさに昭和の感性が窺える。それにしてもこの事件がカネ目当ての行きずりの犯行とは、昔の事件取材者の感覚からは大きな違和がある。昭和のアナロジカルな常識では、あれは「依頼殺人」とみて平仄が合うのである。きっと盆暗な老人はこうして時代から取り残されていくのだろう。
「スゴい機械ができたんですよ」と教えてくれたのは亀有警察暑の交番勤務の巡査だった。地元で可愛がっていた若いオマワリだ。
交番に「もうすぐ、こういうクルマが通るから停めろ」と、本庁の通信指令から指示が来る。大半は盗難車かクルマでの家出人だったらしい。発見された方は「どうして判ったんですか?」と不思議がった。まだ葛飾区内の水戸街道にも二、三台しか設置されていなかった。
早速、警察庁の交通部だったかに取材をかけた。
「捜査のためにも公にしたくない。書かないでもらいたい」と頭を下げてきた。
「ぢゃ“貸し”にしておきますから、今後よろしく」
そういえば昔はたれでも他人の戸籍を取ることができた。事由に「取材」と書き込めば役所は戸籍謄本の青焼きを出したのである。最初に規制をかけたのは「人権府政」の京都だったような気がする。革新府政、蜷川虎三の時代である。それが全国に広がり途端に取材が面倒になった。
今回は取材記者をはじめた頃のことを記す。古き良き時代へのほろ苦くも甘美なノスタルジーである。
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- 2011/02/11
- 執筆者: Yamaoka (6:30 pm)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第13回 大相撲八百長問題と三浦事件(続き)
半世紀ほど前までこの地方ではこの時節「農民美術」という農閑期の手仕事があった。
信州に都落ちしたばかりの頃、愚生も村の公民館で木彫のレリーフを教わった。蕎麦打ちにも挑戦した。ところが不器用なのは脳髄だけではないと知って即座に諦めた。都合よく百姓にはなれない。よくある「夢の田舎暮らし」「人生の楽園」の蹉跌である。
立春前後の数日、太平洋の高気圧が張り出して久々に寒気が緩んだ。
アジア・モンスーンの国土気象にはやはり陰暦が似つかわしい。一年は二十四節気でメリハリを保ちたい。調べたわけではないが、今年は一月睦月が閏月だったのではないだろうか。
昔は相撲を「国技」などとは呼ばなかった。国技は「柔道」と「剣道」しかないことはたれでも知っている。あれは法律で禁止されていなかったので日本相撲協会が勝手に言いだしたにすぎない。
もともと相撲は古い歴史のある「神事」である。形式美を尊ぶ伝統芸能である。いまでも地方巡業の勧進元は大半その筋絡みである。興行だから仕方がない。
昔は八百長などというヤボな言い方はしなかった。かっては「人情相撲」と言った。団塊世代には記憶にある大鵬と長期休場開けだった柏戸の全勝対決での「人情相撲」は語りぐさとして残っている。柏戸の「奇跡的復活」というカタルシスに観客は酔った。予定調和の「美談」だった。負けた大鵬は「さすが大横綱」と逆にリスペクトされたのである。
そのうち時代が経って「ガチンコ原理主義者」の存在感が増してきた。「阿佐ヶ谷勢」の台頭がニューウェーブだった。かって騒がれた「若貴兄弟喧嘩」は清濁に関する伝統派と改革派の争いだったと愚老は勝手に思量している。人情相撲は原則「星の貸し借り」である。つまり相互扶助の精神である。対するガチンコは強食弱肉の市場原理主義である。
協会は仕方なく「無気力相撲」と呼びならして問題化、表面化をうやむやにして頬被りを決め込んだ。多分、負け方もミエミエでヘタクソになったのだろう。そして角界の人情と美談の時代は実質的に終わったのだ。伝統がフェアネスに駆逐されたのだ。何という浅はかさだろうか、と老人は嘆く。
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- 2011/02/01
- 執筆者: Yamaoka (5:30 am)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第12回 三浦和義事件の思い出」
この国でもっとも内陸性乾燥気象の顕現する高原盆地はぽっかりと雲の穴があき快晴の日々がつづいている。最低気温も放射冷却のせいで氷点下二桁まで冷え込む。
「お前の末枯れた暮らし向きに同情して寒中見舞いの義捐品を送る」
今週は「ロジ担」のような旧い友人ふたりから珈琲豆、煙草などチアーアップの差し入れがあった。ひとりは山岡である。ありがたいことだ。愚老は深謝に堪えない。
冬の生活は擬似的にだが内省的になるので嫌いではない。
〈寂寥だけが道連れ〉の日々に〈自由の意味が体で解るようになった〉と書いたのは「倚りかからず」の詩人、茨木のり子だった。
この季節は〈独りを慎む〉(向田邦子)ことを想念して電気炬燵に逼塞する。自身の世界に調和する。ときにこんな「残日録」のような戯言を記す。こころの捨て場所はいまだ見つからないのだ。
佐藤泰志『海炭市叙景』が面白かった。八〇年代後半バブル期の函館。十八の小さな個人、小さな風景の労働者群像を描く。街のスケッチとポルトレの物語。経済はまだ拡張の時代だったが、地方都市の市井の暮らしはかなしいほど儚いという現実を確たるまなざしで見つめる作家。自死直前の遺作というフィルターもかかって昭和の終わりに書かれた掌編群像は「失われることになる」廿年を暗示してどこか不穏が漂う。新しい道路、工業団地、ショッピングモールの建設という経済成長が街の無機質化、無縁化を暗示する。あんな観光都市でも「地方の疲弊」はすでにはじまっていたのだ。そのくせ中島みゆきの暗い歌でも聴いたような読後感は意外に重くはない。悲哀に彩られた「白鳥の歌」なのだと思う。蛇足だが「野生大麻」の採集という逸話には時代を感じた。その昔、都会の若者はたれしも「北海道大麻刈りツアー」に出かけた時代があったのだ。もちろん、愚生も例外ではなかった。そういえば自衛隊が野生大麻を火炎放射器で焼いたのだ。思えば仕合わせな時代だった。
絲山秋子『妻の超然』。こういう才気に満ちた小説が好きである。リアルな「現代」を書かせたらその手練に感服する。「超然」というこころの態度は、多分、いまの時代の重要なサムシングなんだろうと老人は漠然と思う。
西村は〈この方面でもっか突出している〉。それは西村流の〈被虐的なキャラクターが確立されているから〉何を書いても主人公の〈陰気さや陰険さは読者にはもうおなじみで「おお、またやってるな」と思うとホッとするという、すでに人気マンガの主人公みたいな域に達している〉らしい。
〈ダメ男界の帝王〉だそうだ。〈この先人気に火がついても、どうせ彼はそれをネタに毒づきまくるだろうから心配いらない〉そうである。
ちなみに「またやってるな」の〈マンネリ芸〉作家に南木佳士、佐伯一麦をあげている。ふたりとも著作のほとんどを読んでいる数少ない作家だ。恐るべし斉藤美奈子。愚老はあの甘美な老いの感傷をシニカルに見透かされているようで心持ちが悪い。老残さえ感じる。ついでに福田和也によれば西村の受賞作の「同性からの軽蔑」というモチーフは〈佐伯一麦の涼やかな美しさも、車谷長吉の芝居がかったところもない〉私小説の新機軸で、葛西善蔵を思わせるという。まったく同意する。
ともかく愚老は「すがれた老人」というキャラクターでいましばしの生を長らえる。
「週刊文春」が「疑惑の銃弾」と題した「殺人告発キャンペーン記事」を連載したのは昭和五十九年のことだった。妻がロサンジェルスで強盗に撃たれ一緒にいた夫も銃弾を受けたという事件。夫はなぜか米軍の協力で意識不明の妻を帰国させ「美談の主」としてマスコミに登場する。妻は死亡するがその三年後、その夫は「保険金を狙った殺人犯」としてメディアで告発されたのだ。ここから「三浦事件」が始まる。
「自作自演」が三浦和義という稀代のトリックスターを読み解くカギになる。「自意識異常」間違いなくその人格は精神病理の対象となる男だった。
その過熱報道ぶりは確かに異常だった。週刊誌とテレビのワイドショーという「警察発表・記者クラブ報道」でなかったことで、クソミソのクライムコミックのような大騒ぎとなった。
当時、愚生はテレビ朝日の「アフタヌーンショー」という昼のワイドショーでアルバイトの事件レポーターをしていた。
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- 2011/01/22
- 執筆者: Yamaoka (2:00 pm)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第11回 日本の価値?タイガーマスク現象?後藤忠政」
ボケは順調に進行している。幻覚、幻聴には親和した。この与太記事も「それ、前に書いてますよ」という記憶の失調がままある。老人力も月並みについてきたのだ。いい塩梅にすがれてきているのである。老い先はみじかい。
また今週の「うちよみ」から書く。久しぶりに正統派のハードボイルドを読んだ。マーク・ストレンジ『ボディブロー』。昨年のエドガー賞ペーパーバック賞受賞作。
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- 2011/01/15
- 執筆者: Yamaoka (12:30 pm)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第10回「読書三昧の正月」報告
この数日、友人知己から生存に関する問い合わせが二、三あった。「孤独死」を心配しているらしい。昨年は牧田吉明も朝倉喬司さんもひっそりとひとりで死んだのだった。
老残はしぶとくまだ生きていたので、取り敢えず遅ればせながら「謹賀新年」を奉祝しておく。すめらみことの弥栄を祈念する。
また私的回想を擬した与太を書き連ねて老いの閑適に一興でも期したい。端迷惑行為とは思うが、いま暫しのおつき合いを。
その夜からそれらをパックのまま安アパートの万年炬燵上にずらり並べると、忽ちにして四畳半には祝祭的空間が立ち現れた。四辺に駘蕩とした春風さえ感じるのである。
国営放送の「紅白歌合戦」も「行く年来る年」も昭和の風俗だから平成の御世には馴染まない。だからテレビは「鉄ちゃん番組」「車窓番組」ぐらいをときにつけておく。「あの世行き」の夜行鈍行旅の乗客のようでもある。
呑みながら本を読む。そのうち字面が霞み酩酊と睡魔が襲ってくる。横臥する。惰眠を貪る。気がつくと寝台で朝だったり午だったりした。暦日は夢消した。長い酔いから醒めなかった。
〈咳をしても一人〉(放哉)のしずかな正月である。
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- 2010/12/20
- 執筆者: Yamaoka (6:20 am)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第9回 もう一つの「フライデー襲撃事件」
老人に振り返るほどの日々などはないが、貧困が身に滲みた年ではあった。最初にその辺りを少し書く。何の役にも立たない極私的雑感である。「たずきの方便」ともいう老人の下らない私念である。
本心ではもう生存などしたくない社会的に落伍した「生存不適格老人」にも国と自治体は「生活保障法」に拠る扶助を惜しまない。権利とはいえ多分、感謝しなくてはいけないのだろう。
死んでこの身が消滅するまではこの世に生存する、というのは散文的な現実である。身も蓋もない恐ろしいまでの真実である。
〈過去は水に流すまでもなく既に刹那的に消え失せている。世界は刹那滅的なのである〉
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- 2010/12/10
- 執筆者: Yamaoka (5:00 am)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第8回 「たけし軍団の『フライデー』編集部襲撃事件」
北野武とその軍団が「フライデー」編集部を襲撃した所謂「たけし事件」についての昔話だ。
週刊誌のフリーランス記者は三十年やったが芸能取材はほとんどない。河原者の世界には疎い門外漢である。。頓珍漢なことを書いたらご寛恕願いたい。
事件のあった昭和五十八年は前に書いた野村秋介さんの「石川カメラマン救出」の年だ。その前年には野村さんや人権派弁護士の遠藤誠さんたちと静岡の「一力一家問題」などをやった。だから日本青年社の衛藤豊久さんともすでに縁があった。
「君のように社会的に影響力のあるタレントが『赤信号みんなで渡れば恐くない』などという違法行為を助長するような反社会的発言をするのは問題だ!」ーーたしか、日本テレビなどに街宣をかけたのだった。
「あれはシャレでして」なんて言い訳が通用しないから芸人も困っただろう。
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- 2010/11/30
- 執筆者: Yamaoka (9:40 am)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第7回 「JR東労組、前進社、タカラ」
JR東労組委員長と松崎書記長のスキャンダル
勿論、たしか書記長に就任した松崎の傀儡、というよりも何の権限もない名前だけの委員長だった。旧鉄労の面子を立てたただの「お飾り」である。「東労の委員長はスナックのママを愛人にして組合費で毎晩店に入り浸り」というようなタレコミが「フライデー」にあった。恐らく対立する組合の嫌がらせだろう。ある夜、何食わぬ顔で客の振りをして蒲田だったか大井だったか、その店をのぞいてみた。
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- 2010/11/21
- 執筆者: Yamaoka (8:50 am)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「往事茫々日記」第6回 「野村秋介自決と日産労働貴族」
「恨みと羨望と嫉妬と後悔にまみれた人生も味わい深いのではないかと思う」ーー中島義道は『不幸論』で書いている。大森荘蔵はいう。「世界は刹那滅的なのである」と。老爺の枯淡は理想である。だが独り身の老人は屈託を抱え韜晦の気分に沈んでいる。貧寒老人の「たずきの道」もまた険しいのだ。
蛇足ながら、この「警視庁公安の汚点」ともいえる「フレームアップ事件」の被告には公明党代議士の息子などもいたが、A級戦犯である担当の東京地検公安検事はのちの公明党代表である。それは「いかんざき」と大いに嗤っていい。
「長枕」になってしまった。霞んだ記憶から「過去」を逍遙していくつかのトピックを記そう。
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- 2010/11/10
- 執筆者: Yamaoka (5:00 pm)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「右翼界交友録」第5回 日本リスク、御巣鷹、よど号、武富士。
だから松永のブログに書いたものを「コピペ」して代用する。それで茶を濁す。所詮、ドカ貧老人の余滴のような与太記事である。どこから文句のくるようなものでもあるまい。
「あれは俺が山岡と呑むために情報提供した」なんてことは絶対に言わない。信州のこんな片田舎で余所者の老人が生きていくには余計なことは言わないほうが身のためだ。宮本常一のいう「世間師」というやつに近い、いや憧れている。秦野章と中村武彦先生には「神兵隊事件」以来の長い縁があるので、それについてはまた改めて書こう。
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- 2010/10/30
- 執筆者: Yamaoka (2:50 pm)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「右翼界交友録」第4回 「生涯の兄貴」だった阿部勉さん
二十歳の時の一年は「二〇分の一年」だが、六〇歳の一年は「六〇分の一年」だから短い。三倍の時の流れだ。
早いもので阿部勉さんの命日「閑人忌」(十月十一日)も、もう十一回目になる。
「生涯の兄貴」だった阿部勉さんについて改まって語ることは難しい。
「阿部勉」のイメージに自然の風物は不思議なほど似合わないという偏見もある。たしかに小生との交友の大半は新宿の隘路のような狭斜の巷、殆どは歌舞伎町の一隅ゴールデン街である。
それでも阿部さんは故郷、東北の片田舎、角館を愛していた田舎者である。同じ田舎者の小生は、その息づかいを感じるほど「兄貴」を身近に感じることができる。
「死者との対話」は老人の得意技でもある。
その意味で過去の死者は「私」が忘却するまでは、生き続けることになる。
この春、それまで十年近く身近に置いていた阿部さんの「楯の会」の制服を長男の孝人に返した。今風に言えば「終活」というのか、身辺整理をはじめたからだ。過去の残滓を整理して身軽になることで見えてくる世界もある。
「閑人忌」にお祀りらしきことは特にしない。阿部さんの遺児たちに電話をかけて安否確認をするぐらいだ。不肖の舎弟はその子等にしてやれることなどない。ただ元気でいればいい。
ひとの交わりには四季があり、濃淡がある。昭和の終わりから、その死までの十年間に千回の酒席。それはあくまで「個人的な体験」である。他人に解って貰おうとは思わない。
その日は気鬱だったこともあって終日蟄居して本を読んでいた。
山平重樹『最後の浪人 阿部勉伝』。この本は企画当初から噛んでいたので見るたびに感慨がある。最初の打ち合わせは菅平の「阿部勉記念民宿・閑人舎」で行った。
鈴木義昭『風の中の男たち』は阿部さん本人から貰った。昭和六一年の雑誌「アシュラ}の記事『究極の右翼・新無頼派行動学入門』が収録されている。
今年二月に亡くなった立松和平さんの連作「晩年まで」の『浪人』は、平成十九年の『晩年』には未収録なので「三田文学」二〇年冬期号で再読。
「阿部勉さんってどういう人だったんですか?」
ウィキペディアに載っている「阿部勉」は当然ながら「右翼運動家」「早稲田大学法学部卒」(実際は学費未納による除籍)「楯の会一期生」「鈴木邦男とともに一水会を設立」「維新政党・新風の初代綱紀委員長」という味気ない記述のみである。
阿部さんの葬儀委員長をつとめ“右翼の良心”といわれた民族派の最長老だった故・中村武彦先生は弔辞で言った。
《……君は世間普通の常識的な物差しでは、とても計ることのできない機略縦横、底知れぬ英知と愛情と堅剛な意志を持った天才児でした。風俗の理解を超えた端倪すべからざる存在ではありましたが……》《その冷静なる知性と学識が維新陣営第一流であったことは、誰しも否定しませんが、その飄々として時に無責任に見え、時に非情に感ずる振舞いのなかでも、その思いやりと親切は人一倍であり、まことに友情と信義に篤かった(後略)》
最後の十年、その親切を最も享受したのは多分、小生だろうと思う。
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- 2010/10/18
- 執筆者: Yamaoka (10:00 am)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「右翼界交友録」第3回 野村秋介さんとの思い出
大半が「あいつには迷惑を被った」という被害談なのには苦笑した。それが牧田の人生の柄だったから、もって命すべしだろう。何となく微笑ましい。
その牧田から「面白い人物を紹介する」と誘われて、新横浜のホテルで開かれた「大悲会十五周年パーティ」に行ったのは昭和五十八年の十二月らしい。そんな日付を鬱惚け老人が覚えているわけはない。たまたま山平重樹『最後の浪人 阿部勉伝』に書いてあったのを見ただけだ。「生涯の兄貴」だった阿部勉さんのことはまた書く。
昭和三十八年「河野一郎邸焼き討ち事件」で懲役十二年、出所一年足らずの「経団連事件」で懲役六年の計「獄中十八年」の行動右翼の素顔は小生の先入観を見事に裏切った。多分、その明るいカリスマ性に感染したのだと思う。
そのパーティは野村さん、須藤久さん、牧田の三人が並んで「フォーカス」の記事になった。「極右と極左、左右弁別せざる時代……」というような記事だった。取材したのは亡くなった土場喜徳さん。この人とも親しく付き合ったが「時代遅れ」の記者だった。
どんな経緯だっかは忘れたが、間もなくTBSの深夜番組「ニュースデスクTODAY」で野村さんをインタヴューして、「いま、新右翼とは?」というタイトルで二〇分ほどのレポート番組をつくった。このとき高田馬場の一水会で木村三浩とも初めて会った。
この番組は「右翼に好意的」と社内で問題になったらしいが、電波などは流してしまえばこっちのものである。それを機に野村さんとの交友がはじまる。平成五年の朝日新聞社の自決までちょうど十年の歳月、新宿のゴールデン街などでよく呑んだ。
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- 2010/10/10
- 執筆者: Yamaoka (3:50 pm)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「右翼界交友録」第2回 ホームレス→孤独死した元ピース缶爆弾男
「山岡のところなんかに書くなよ」という意見が多い。それで斯界における山岡のポジションがよく判った。
「酒を呑むカネがなくてね」というと「じゃ仕様がないか」と忽ち理解してくれる。民族派諸兄はみんな優しい。
ま、編集権は山岡にあるのだからこれ以上は言わない。ただし前に書いたように昔は無頼を気取った「ヤサぐれ記者」だったから当然、拗ね者でもある。天の邪鬼とも反骨ともいう。だから今回はある「元左翼過激派」のことを書こう。
*
そういえば白州次郎・正子夫妻も血縁者で、武相荘(=東京都町田市。下写真)を訪ねたといっていた。別件で京都で一年の拘留後しばらく三菱の“威光商売”で編集プロダクションを経営していたが、信州南小谷に転居して民宿を始めてからは、ある意味で初心を貫徹した、つまり自由気ままに開き直った生き方をしたのだと思う。
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- 2010/09/24
- 執筆者: Yamaoka (6:20 pm)
<新連載>元「フライデー」名物記者・新藤厚の「右翼界交友録」第1回「東シナ海波高し。尖閣諸島の記憶」
2年前に故あって「適応障害による抑鬱症」を発症し、農協病院の精神科にかかる身の上でもある。抗欝剤、安定剤、眠剤に淫している。アルコール依存も進行している。
今年春からは、憲法25条の生存権に依拠してこの世に身を晒している。落ち込んで家賃4万円の安アパートに引き籠もるか、ただレイジーな時刻の流れに身をまかせて、ひねもす薄らぼんやりと過ごす日々がつづく。
この間、自殺未遂2回。月9万6千円の暮らしは少しく苦しい。煙草銭をとれば一日300円の食費で生きている。殆ど亡命者の心境、難民のような貧困である。
そこで後輩の山岡俊介にカンパニアを依頼した。結果、山岡の厚情でこんな駄文、与太話を書くことになった。
恥ずかしながらお断りしておくと、数週間前からやはり後輩の松永他加志の
記事は同様である。共通の読者には「社会復帰のリハビリ、貧困対策」ということで無視していただき、どうかご寛恕願いたい。
かって30年ほどマスコミの底辺に身をおき週刊誌、テレビの仕事をしていた。山岡からは「昔の企業、政治家恐喝などワルさの数々、塀の上を歩いた日々の内幕暴露話」を書けと依頼された。たしかにハッキリ言って「羽織ゴロ」のようなヤサぐれ記者だった。今から振り返ると汗顔の至りである。ただ病んだ老人には萎縮する脳、はっきりしない思惟、霞む記憶しか残っていない。もう暫くすると惚けという名で呼ばれ「老人力がつきましたな」とホメられもする。いや、もう殆ど到達している。思えば悲惨な余生だ。山岡には申し訳ないが、期待には応えられそうはない。最初に謝っておく。
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